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【東京島酒『嶋自慢』の飲俗學<5>】 ぷらいべえと-Portrait of 新島酒蒸留所

NHK-BS『新日本風土記』「東京島酒、もう一杯」より

過去から現在へと舞い戻って。

創業から100周年を迎える株式会社宮原/新島酒蒸留所、その”今”を支えるふたりについてご紹介したい。

■宮原 淳(あつし) Profile

1964年6月:新島生まれ
1983年3月:東京都立秋川高等学校卒業
1987年3月:東京農業大学農学部(醸造学科)卒業、宮原酒造合名会社入社
2001年:同社社長に就任
2008年:株式会社宮原に改組 社長に就任


■櫻井浩司 Profile

1992年9月:新島生まれ
2011年3月:東京都立新島高等学校卒業
2011年4月:東洋大学国際地域学部入学。
      在学中より2016年まで都内飲食店勤務
2016年:帰島、株式会社宮原入社。
現在、杜氏修行中。

現在、宮原社長の下で杜氏を目指して修行中なのが、櫻井浩司さんだ。浩司さんは”麹”さん、蔵人にぴったりの名前ではないか。

『東京新聞』web 2010年7月10日付 全国高校野球選手権東京大会1回戦

2009年、彼は甲子園を目指す夏の第91回東東京大会に新島高等学校野球部の一員として出場した。2回戦で強豪「日大豊山」と対戦、結果はなんと33:0で5回コールド負けとなった。が、浩司さんがチームで唯一人粘りに粘って相手投手からヒットを奪ったという。

2022年5月、『東京七島新聞』で紹介された櫻井和也・浩司兄弟。

櫻井さんも3年生の時に七福薯(あめりか芋)栽培にたずさわり、2年後の成人式で『七福嶋自慢』を記念品として受け取った経験者でもある。


■入社以前すでに遭遇していた、師と弟子。

NHK-BSで放送された『新日本風土記』「東京島酒、もう一杯」の中では、宮原社長が帰島したい若者がいるとの紹介を受けて櫻井さんを採用した、というシーンがあった。

実は宮原社長と櫻井さん、ふたりは2016年の正式入社以前、偶然にも出会いがあったのだ。縁は異なもの。

『東京七島新聞』 2014年3月18日付(宮原淳氏提供)

2014年3月、新島産100%焼酎づくりのために大麦の試験栽培を行った際、農家で麦踏みなど農作業のために東洋大学からボランティアの学生たちが来島した。そのグループのリーダーを務めていたのが在学中の櫻井さんだったのである。

櫻井さんは「被災地や不便な海外のボランティアを経験し、感謝の言葉をいただくたびにやってよかったと実感。まして自分の故郷ならなおさら」と感想を語った。

と記事の末尾にもある通り、櫻井さんは若いながらも人生いろいろな経験を積んでいるようだ。


■ひとりより、ふたり。

【宮原社長談】
「父は働き過ぎて体を壊して、私が高校生の時に死にかけたんです。『親父が危ないからすぐ病院に行け!』と寮で言われ、上野の親戚宅にお世話になりました。長い入院生活からなんとか回復しましたが、父はもう元のようには働けなくなりました。

その頃、蔵では祖父と母と手間請けのおばさんの三人で焼酎をつくっていました。

一次もろみはビール箱くらいの高さの木の台に500Lのタンクが置いてあって、20Lの試桶に汲んで手で運び、二次仕込みのコンクリートタンクへ注ぐという方法でした。はしごを掛けた上に手伝いのおばちゃんがいて、渡すと彼女がタンクに入れる、麦もバケツに入れて運んで渡す……という非効率の極みみたいな仕込みだったんです。未納税も入れたりしていたそうで、なんとか乗り切ってきました。

私は大学を卒業してすぐに島に戻って、その冬から母と焼酎をつくるようになりました。麦を蒸して種麹を振る日、この日は蒸留の日、そして三角棚に麹を移して、また麦を蒸して二次仕込みの日……….この2日サイクルの仕事を途切れることなく続けて、1月から3月まで休みは有りませんでした。

それから数年後、強風の日でした。母が風で転んで大怪我をして、ついに引退宣言をしました。それから現社員の櫻井君が入ってくるまで、10年以上一人でずっと仕込みを続けてきました」

孤軍奮闘していた年月。しかし櫻井さんを迎えて二人三脚で取り組むフォーメーションが生まれたことにより、かつての、独りで蔵を支えていた過酷な状況は和らぐことに。

さて、現在の仕込みはどのようなものか。次回は、工程の一例として麦焼酎『羽伏浦』の製造プロセスを追ってみたい。

(<6>に続く)

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