小説『だからあなたは其処にいる』第ニ十三章 鎧を脱いだヴィーナス
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第ニ十三章
一
あーたらしいあさが来た!
きーぼーのあさーだ!
公園でラジオ体操や太極拳をしているご老人たちを横目で見ながら僕は出勤する。
そのまま、20分ほど港まで歩いていくと、休んでいる小さな船がたくさん海に浮かんでいて、なんとなくホッとする。朝がどんどん好きになっている。
港を望む一角にカフェができた。カフェイン中毒の僕はとても嬉しい。
僕の特性で、コーヒーやスープを入れようとしてやかんを火にかけたとしても、何かに気を取られると没頭して、すっかり火を使っていることを忘れてしまう。今まで何度もやかんを焦がしてしまった。だから最近は自宅で飲むのを諦めて外で飲むようにしている。コンビニのコーヒーや会社のコーヒーも慣れれば悪くない。
優先順位がわかりにくい僕は、人より先に出勤することがとても大切だ。実際にその場へ行って、今日一日をイメージする。◯月◯日のto do ristと、賢治さんがメモ帳に一週間分を手書きしてくれる。このメモ帳が僕のお守りだ。
賢治さんや小野田君が冀州出版社に入社してくれたおかげで、僕は会社全体のことを考えたり自分のした仕事を振り返るようになった。そんなことはアルバイト時代なら考えられなかったことだ。毎日毎日ただ叱られないようにビクビクしていたから、会社の現状分析もしないし将来への展望を考えたりもしなかった。夢なんて全くなかったから。
ニ
2000年代冀州出版社は業務を縮小した。婦人部の雑誌ニ誌は新しい月刊誌一本になり、美術部の月刊誌は季刊誌になった。いずれ、美術部の雑誌も一本化されるという。デジタル化の波は急速に紙媒体を飲み込んでいく。僕のいる会社なんて地方都市の二十人足らずの出版社だから、鯨や鮫を相手に、鰹が二十匹集まって毎日なんだかんだ闘っているようなもんだ。
僕に仲間意識が生まれたことが不思議で仕方ない。無自覚に人に依存することばかりだったのに、今はもうちょっと何か自分の力でやってみたい。かと思うと、諦めるほうが快適なことに固執しないでさっさと他のことに目を向けるのがいいんじゃないかって考えてみたりもする。あぁ、こういうのは、切り替えるって言ってるのかな世間の大半の人は。車のハンドルを切って違う道を選ぶほどの潔さは僕にはまだないけど、座り込んで具合悪くなって誰かに気づいてもらおうっていうズルさは、もう捨ててしまいたいと思っている。
三
冀州家の相続争いで、冀州透子編集長は冀州ビルを出た。
僕が萩原さんに聞いた話では、冀州ビルで働くことが冀州透子さんの執念に近いものだったらしいんだけど、司令塔である萩原さんが会社から居なくなってしまって、もう意地になっても仕方ないって思ったのかもしれない。
僕は不安や不満をそれなりに手荷物に詰め込んで、編集長が突然告げた会社の引越しに従った。今回の引越騒動で辞めた人は、アルバイトさんとパートさんが一人ずつ。(社員も辞める人がいると思ってたけど、今のところ誰も辞めないらしい。)時給で働くんだから、将来性が低い会社に見切りをつけるのは当然の選択だと思う。
こんなことは今までしたことなかったんだけど退職するアルバイトさんとパートさんに、お疲れ様の気持ちを込めてシフォンケーキをホールで買って手渡した。二人共、ご家族がいるから丸いのがいいと思って。(会社のクライアントさんのところで買ったものだから、営業も兼ねているんだけど。)そんなに仕事中も話したことなかったし、僕は迷惑ばかりかけていたのに、二人共とても喜んでくれた。
贈り物っていいな。気持ちを形にして自分なりの言葉を添えて手渡すのって、照れ臭いけどいい。ずっと面倒くさいことだと思いこんでいたんだけど、二人が頑張っている姿を見ていたから、お別れなんだなって思うと自然と贈り物をあげたくなったんだ。
よくよく考えてみたら、ラッピングやギフトカードにもデザイナーさんやイラストレーターさんがいて、製品を作ってくれた人達がいる。だから、僕は贈り物ができた。世の中が、まあるく大きな輪でつながっている気がした。
四
冀州編集長の朝礼がなくなった。少し寂しい。そして話し方も変わってきて、とにかく威張らなくなった。ファッションも、商店街にいる普通のおばちゃんと変わらなくなってきた。綺麗に巻いていたロングヘアはショートになったし、長い爪ももうやめたみたい。本を運ぶのは重労働だから爪が邪魔なんだろうけど、そもそも編集長が僕らと同じような雑務をしたことなんてなかったから、よほど引越しが影響したんだろうなと思う。
「ねぇねぇ、一平さん。編集長、変わったわよね。圧倒的な美がなくなって迫力がなくなったもの。」
昨夜のデートで賢治さんが言ってた言葉が蘇る。確かに言う通りだと思う。
かつてのヴィーナス感は今では皆無。じゃぁギラギラしてた頃の編集長と今の編集長を頭の中で並べてみたら、僕は今のほうが素敵だと思うんだ。社員やパートさんアルバイトさんと和をつくろうと懸命に働く姿はとても同じ人だと思えない。角が取れたっていうのは、今の編集長のことだよね。
一番の変化は、冀州編集長って呼ばなくていいと言い出したこと。透子さんって呼んでほしいと言い出した。なんでも外国人のお友達の影響らしい。
冀州編集長の激変ぶりに、他の人はまだまだついていけないみたいだ。僕も五年のアルバイト生活で社畜根性が染みついているからか、今も命令されるほうが落ち着く時もある。いつになったら全部自分で計画して、自分のすべきことを決めて、すぐに行動できるようになるんだろう。
透子さんの、以前の自分本位な生き方はとてもじゃないけど真似できないけど、今の透子さんなら少し尊敬してる。
編集長が時代の潮目(って、小野田君が言ってた)を読んで、変わろうと努力していることって素晴らしいことだと思う。社員は意見を聞いてもらいやすくなったし。冀州ビルみたいなレトロモダンな空間の華やかさこそなくなったけれど、今の古ぼけた昭和レトロなお店で和気あいあいと話し合える毎日のほうが風通しの良い職場になった気がする。
五
「小野田君、おはよう」
「一平さん、今朝も早いですね」
「うん。一番乗りだと気持ちがラクなんだよね。賢治さんは一緒に住んで、朝も車で送ってあげるって言ってくれるんだけど、甘えたくなくて」
「へぇー。一平さんらしくないですね」
「僕らしくないってどういう意味?」
僕らが笑いながら話していると、冀州編集長が建て付けの悪い引き戸を開けて入ってきた。
「この入り口、大工さんを呼んで直してもらわなきゃね。二人共、どうしていつも早起きなの?最近の若者は飲みに行かないのかしら。あっ。こういうのもダメなのよね。プライベートを詮索するのはmoral harassmentなんですってね」
「き、へ、透子さん、おはようございます」
冀州編集長と言いかけてやめる。まだ、透子さん呼びは慣れない。
小野田君は、絹のように滑らかに挨拶する。
「透子さんおはようございます。harassmentだなんて思ってませんよ。僕はアダムに毎晩飲みに行ってます。ショートスリーパーだから五時間寝れば出社できるんですよ。うちは斜め向かいだし」
笑顔で海人が指差すその家を、冀州透子は眩しそうに見た。
小野田海人の家は二百坪の豪邸だ。敷地内の一角に両親が営む画廊があり、綺麗に剪定された木々が生い茂る庭からは鳥の鳴き声が聞こえてくる。
つい最近まで冀州ビルから見下ろしていたその豪邸を、今は地上で見ながら仕事をする毎日。もし透子さんが見栄に囚われている人なら耐えられないことだろう。僕なら卑屈になったかもしれない。冀州ビルから徒歩圏内の空き店舗に移ったのは引越業者を雇えないからだし、自宅からも近いから仕事にすぐに取りかかることができるんだと、透子さんは楽しそうに話してくれた。僕が知らないしんどいことが山ほどあったはずなのに、毎日ニコニコしている。人って変わるもんだよね。
四
午前中の仕事を終えて、婦人部のみんなで蕎麦屋へ行くことになった。編集長の透子さんは、滞納したままの家賃を支払いに行って別行動だ。
蕎麦屋さんは、うちの雑誌にずっと広告を出してくれてたクライアントさんだけど、後継ぎがいなくて今年いっぱいで閉店するのだ。
「よぉ!久しぶりだね。一平君すっかり一人前じゃねぇか。前はスーツが七五三にしか見えなかったが、今や立派なヨレヨレサラリーマンだ」
東京弁の歯切れの良さに、その場にいる誰もが元気になっていく。
「ヨレヨレはやめてくださいよぉ」
僕が照れ隠しで反論すると、お爺さんは盛りそばを大盛りにして持ってきてくれた。
「もっと食べないと大きくなれねぇよ」
「はい。ありがとうございます」
いただきますと言って手を合わせるだけで、お爺さんは偉い!と褒めてくれる。そのたび、なんだか笑いが起きて食事が楽しくなってくる。
実家では個食だったし、体質的に食べることが苦痛だったのに、今はみんなと笑って食べられるようになった。不思議だけど、何を食べても美味しい。賢治さんと一緒に仕事できるようになって、味がわかるようになった。体重は人生最大の43キログラム。こけた頬が少しふっくらしただけで印象も変わるらしく、クライアントさんのところへ営業に行くと、優しい顔になったとか明るくなったとか言われるようになった。
蕎麦湯を持ってきてくれたお爺さんが、小野田君に言った。
「海人は起業するって言ってたよな。いつやるんだい?イベントってやつは?」
き、きぎょう?まだ入社一年目だよ。もう辞めちゃうの?
〜続く〜
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