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「ラブドール規制論」は「感情論」なのか?

今回は、最近インターネットで「炎上」的論争になっている、ラブドール規制論について扱いたい。

1.論点整理

まず私は、起点となるラブドール規制論者の「論理」は以下だと推論する。

1. 一部小児型ラブドールの存在は特定の人々の小児性愛嗜好を誘発し、強化しうる。

2. 小児性愛嗜好者は、そうでない人に比べ小児性犯罪を行う蓋然性が高い。

3. 児童性虐待により侵害される子供の利益のためには、一般のラブドール愛好者との利益衡量の範囲内で、規制はやむを得ない。

4.故に、その範囲内であると思われる規制案を提起する。そしてこれを軸に規制範囲の妥当性を争うべきであると主張する。

これに対して「議論」しようと思えばいくらでもできるだろう。

ラブドールが小児性愛を誘発するという証拠は何か。小児性愛者が犯罪を犯しやすい統計はあるのか。統計があったとして人権を侵害して良いのか。逆にラブドールの存在が犯罪抑止につながるのではないか。その証拠は。そもそも小児性愛の定義は。判定方法は。それは病なのか否か、病だとしたら治療介入と人権の兼ね合いは。未だ被害者ではない子供の未来の利益と、犯罪を犯していない人の利益など比較して良いのか。良いとして利益衡量の基準は何なのか。上記すべての詳しい科学的、法学的根拠は。

あるいは、別の方向で「議論」することもできる。

根拠薄弱な論法でなんども「論理」もどきを出してくるのは、背後にある感情論が原因で、議論に意味はない。いや、そんなことを言う方が感情論だ。そうやって水掛け論に持ち込もうとするのは自称中立派のどっちもどっち論である。ある人物が感情論者だという根拠として相手の過去の発言が挙げられる。まずそれに対して議論すべきだろう。そもそもこの「感情論」合戦の構造自体をまず議論すべきではないか。


こういった手法で、反論や分析をしようとした方。あるいはこの私の推論自体に疑義を呈しようとした方、ちょっと待っていただきたい。

本noteの目的は、規制派・反規制派の論理を論証したり、反論することでも、両者を仲裁することでもない。そして、誰かの論理の背後にある動機、感情を推論したり、検証することでもない。

強いて言うなら、表現の自由、内心の自由、人権といった「前提」を軸に、問題の構造を「事実認識」と「価値判断」へとまず分割し、アプローチしようとした賢明な方々に、ある現実に気づいていただくのが目的である。

そもそも、今我々は「表現の自由」「内心の自由」「人権」とは何か、何であるべきか、にすら合意できていないし、永久に合意できない「ラブドール」のラの字が出てくるずっと以前の「前提」から根本的に決裂している。

それにも関わらず、「ラブドール」に対する各々のスタンスが、「前提」に対する人々の認識に逆流し、ますますそれらは断絶し、「前提」は前提として機能しなくなっていく。

議論は不可能であり、しかもやればやるほど不可能になっていく。

2.「「規制論」「反規制論」は「感情論」か」という「偽問題」

私はこの記事を、自称・メンタルタネマキストである、「めんたね」氏の以下のnote記事内容、ではなく主にそれに対する反応を見て書いている。

ちなみに、私の理解では、めんたね氏は、心理療法的なバックグラウンドを持つ、コミュニケーション一般に関する実践的指導者であるようだ。本件以前には詳しく存じ上げなかったので、この理解は正しくないかもしれない。より正確には各自調べて頂きたい。

めんたね氏は、webの炎上案件のほぼあらゆる論点・論法に対して、心理療法的立場から分析を行い、その背後にある「感情」の構造について議論するという活動を行っているようである。これはこれでなかなか興味深い。

だが、私にとってそれよりも興味深いのは、これに対して「反応」している多くの人々が、「感情」についての議論の中身自体には一切興味を持っていなさそうである、という点だ。

たとえば、一行コメントSNSである、はてなブックマークの反応を軽く眺めてみる。なかなか多くのブックマーク・コメントがついている。

しかし、名指しはしないが、殆ど次の反応しかないように私には見える。

・記事の通り、規制派の主張は感情論なので、却下すべきである。

・規制派の主張が感情論だという前提は間違っており、記事は却下すべきである。

・これは規制派の主張が感情論だとして却下するための記事であり、これ自体が感情論なので却下すべきである。

・そもそも反規制派のロジックこそが感情論であるから、そちらを却下すべきである。

・感情論かどうかは関係ないし、判定不能であるから、どうでもいい。もともとの論理自体を判定し、どちらかもしくは両方を却下すべきである。

そう、皆が関心があるのは、誰の論理を却下すべきか、それだけだ。めんたね氏自身の記事ですら、その背後にある動機が疑われる。

そもそも、めんたね氏がやりたかったことは、「感情論」だと仮定した上で、その先の分析を行うことであり、「感情論」か否かを主張したいわけではないはずである。それなのに、それは一切無視される。

「感情論」かどうかというのは、ある意味では「偽問題」なわけだが、それが「偽問題」だという主張そのものも争点になってしまうので、意味がない。

これが本当かどうかは、皆さんでブックマーク・コメントを眺めて確かめて頂きたい。

私は、はてなブックマークの方々を批判したいわけではない。もっと長文が書ける、ツイッター、ブログなどを軽く検索してみても、単にほぼ同様の反応を長文で記述しただけのものがほとんどに見える。

そしてこの現象はめんたね氏の記事だけへの反応でもない。なぜだろう。

私の考えでは、ある発言が「感情論」かどうかが人々の最大の争点の一つなので、それを「前提」にしようとする動きは、常に別の何かを装った「攻撃」にしか見えていないからだ。

3.事実認識、価値判断、そして「当然の前提」

冒頭の「論理」に対して、大抵の人は次のようにアプローチするだろう。

1.規制論を論ずる場合の共有コンテクストである「表現の自由」「内心の自由」「人権」などを起点に、「論理」のうち、どこまでが事実認識で、どこからが価値判断なのかを確定する。

2.疑義を呈したい事実認識があれば、そこを争点とする。その事実認識に至った科学的手法や、あるいは、その起点となる価値判断を推論し、そこを争点とする。

3. 事実認識に異議がなければ、残った価値判断を争点とする。その結果賛成・反対・保留などの態度を確定する。

1さえ終われば、一応議論はできるはずだ。

細かい議論の論点は冒頭に適当に書いておいた。この論点で「議論」されている方々も大勢いる。

ところが、実際に起きているのは以下だ。

「表現の自由」があるので、規制は最小限にすべきである、という発言には「表現の自由」は他者の利益を侵害する可能性があってはいけないのだ、と応じる。

ある観点から、「内心の自由」を侵すべきではない、という主張には、それは「内心の自由」などではない、と主張される。

「人権」侵害であると言えば、その「人権」を守ると、別の誰かの「人権」が大きく侵害されるので、それはそもそも守るべき「人権」ではないと言われる。

この論点に関して、法学の専門家の意見や総意などは、実は大して意味がない。

日本における議論ではないが、韓国で類似の議論があった。

ラブドールの輸入禁止を求める訴訟に対し、高裁判断で却下、最高裁もこれを支持した。「個人の嗜好品」は制限すべきではない、という、少なくとも「法の常識」的な論拠による判決のようである。

だが、一切運動は停止していないようである。法の裁きの結果、その論拠となる憲法上の根拠すら、「前提」だと決して認めない人々がいる。

そういう人たちは過半数をとりつづければ、いつか法や法の解釈自体を根本から変更できると信じ、運動を続ける。そしてその認識自体は真実である。究極的には、法やその運用は、多数決でいくらでも変更できてしまう、少なくとも事実上咎められなくなるというのが現在の「民主主義」だ。

人は議論が気に入らない結論になりそうなとき、「表現の自由」「内心の自由」「人権」「議論の手法」「相手の信用」などを争点として、議論自体を無効にする。ゆえに「前提」から一歩も進めない。

共有コンテクストである「表現の自由」「内心の自由」「人権」などなどは実は共有されていないので、事実認識と価値判断の分離方法自体が争点になり、だれもそれ以降の話を聞いていない。「前提」はいくらでも遡れるから、どの「前提」について語るべきかすら合意できない。

お互いに話を聞いていると思っているのは、単に賛成・反対・保留の立場がだいたい一致している人たちが、仲間であることを確かめるコミュニケーションを行っているだけである。だから別の論点になると一切話が通じなくなったりする。

めんたね氏は「発狂ワード」という観点での研究を行っているようだ。勝手に要約させていただくと、ほとんどの人は論理的思考やコミュニケーションができないわけではない。自身にとって重大な「発狂ワード」を耳にすると、無意識にあらゆる理解を拒絶し、自身の立場を一方的に弁説するための論理を組み立てようとしてしまう。ゆえにこの「発狂ワード」を分析することがコミュニケーションの理解につながる。

正誤はともかく、興味深い視点と言えよう。


だが私には全く逆に思われる。そもそも今、私を含め、殆ど全員が常に発狂しているが、ただ仲間であるうちはコンフリクトが起こらないので、狂気が表沙汰にならない。ただそれだけの話ではないか。

重大な論点に対しては常に、今起こっているコンフリクトの原因が事実認識の違いなのか、価値判断の違いなのかが、最大かつ永久の争点になる。

ゆえに、疑念の対象は、「敵」の、特定の議題に関する事実認識や価値判断だけではない。人々は「敵」のあらゆる現実に関する事実認識の手法と、価値観全般に重大な疑いを持ち始める。「前提」自体がどんどんと崩壊していく。これだけが起きる現象である。

この争いが誰かとの間で停止できるのは、単に結論がだいたい同じ仲間だ、と最初から思っているからであって、議論の過程は実は関係ない。

そしてこの現象自体への分析も、めんたね氏の記事のように現象自身に巻き込まれ、現象、つまり分断の加速をただ強化するだけである。

4.論理的自壊と警告

上述の構造はこの私自身のnoteすら逃れられない。

この構造における本noteの立ち位置を説明し、結論を述べよう。

私のnoteは、規制推進論者、反規制論者からすれば、「どっちもどっち」論であり、中立派のフリをした「敵」だ。「中立派」の一部すら、その調停の無意味さを指摘しているという点では「敵」になりうる。これに内容は関係ない。ゆえに読んでほしい人に、中身を真の意味で読んでもらえる可能性は非常に低い。

一応、タイトルに自分で回答しておく。

感情論かどうか、については合意不能である。それどころか、合意不能であるかどうかについてすら、合意不能である。感情論か否かを起点に、様々な「議論」が巻きおこるが、規制派・反対派・中立派の間で、一切話は通じていない。人々は、価値判断のずっと以前の、「最低限の事実認識」にすら合意できない。あらゆる「議論」の形式と中身は、実は何の意味もない。

そして、全く関係ない他の論点についても、ますます話が通じなくなる。「議論」に対する殆どの人間の態度を決めているのは、それ以前の人々の間の信用度だけである。これが変動するのが、「議論」の結果だ。

しかも変動のほとんどは、単に元々信用していた人への信用度が高まり、不信を抱いていた相手には不信感を強める、というただそれだけの話だ。それ以外では、元々信用していた人への不信が湧き上がることは多くても、その逆、不信を持っていた相手に対して信用が回復されることはまずありえない。こうして、人々の信用網は島のように分断され、全体の相互不信が強まる、それが唯一の帰結だ。

そしてその果に、民主主義の最終手段である多数決で決すると、勝ったほうは勝利のお墨付きだと騒ぎ、負けた方は多数派による弾圧だ、民主主義の崩壊だと騒ぐ。だがよく考えると、はじめから終わりまで民主主義など存在していない。議論が成立しないのだから、当たり前だ。

そして、議論は無駄なのに、私が議論は無駄だと叫ぶことすら、無駄だ。

ただ、今まで一切これに気づいていなかっただけの人に、この構造に気づいていただくことだけは、可能かもしれない。

無論、この構造を横目に認めた上で、再び「議論」に身を投じたいという方に文句を言うつもりは一切ない。

ただ、これに気づかないまま、終わらない戦いに疲れ果てている方々には、とりあえず「議論」を打ち切って、休息を取ることをオススメする。これが本noteの真の目的である。

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