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幸せと苦痛①

千葉の
空き家になった実家から
我が家、大分の山奥へ帰ってきた。

9歳の息子と2人で。
自転車二人乗りで
いろんなところへ行った。

勝手知ったる土地の
いろんなところへ行った。

あちこちに人がいて、
あちこちに店があって、
あちこちに
憧れのトレカショップなるものがあって、
大分の田舎で育った息子はそれに興奮した。

ダイソーでバドミントンのセットを買って
ライブに向かう前に
バドミントンをした。

街、町も
耶馬溪よりも全然明るくて、
ちょっと肌寒い
夜の帰り道、
息子が散々、
良いトレカがたくさん当たったことに
「千葉に来てからラッキーだ〜」
とお喋りするので、
黙って聞いていた後、
「僕もラッキーだなぁ〜
お前とお父さんの生まれ育った町を
一緒に走れて」

と、伝えたら
なぜか息子は自転車の荷台から
抱きついたまま、
静かになってしまった。

まさか、
そんな言葉で感動して
涙したりするような歳でもないし、
彼は何を感じて、考えていたのだろう?
ポケカのことかな?

僕は一人でジーンとしてたけど(笑)。

・・・幸せだったな。

*********

それでも、
9歳のレベルに合わせて
1日を共にするのは
かなりしんどくて、
鍛えられました。

でも、
時々youtubeを与え、
時々一緒に見てあげて、
僕は早々寝落ちする。

そんな6日間。

がんばりました。

*********

西千葉の「平凡」さん
というブックカフェでライブして、
稲毛の学童で子ども達に向けてライブ。
この2つを
音楽活動させてもらいました。

そのことのお礼と喜びの気持ちを
綴ろうかと想っているのですが、
親子の幸せから書き始めてしまったので、
別の社会問題について
想ったことを
綴らせてもらいます。

*********

学童ライブを終えた千葉、最終日。

15年ほど付き合いのある友人(女性)と
イオンのフードコートで食事した。

共に音楽をして、
20代の頃に出会い、
その頃、カップルで音楽してて、
3・11をきっかけに
福岡の郊外に移住。

ちょうど
旦那さんが引っ越す前夜、
彼の東京のアパートに泊めてもらい、
僕は被災地の石巻へ。
彼は避難地の福岡へ。

その3年後、
不思議な流れで、
僕も、
2011年、千葉。
2012年、誘われ演劇公演の役者として奈良に住み。
2013年、奈良で知り合った人と結婚して
なぜか大分の耶馬溪に住むことになりました。

大分の辺境に住んでいる気持ちで
徐々に暮らしが広がってゆき、
福岡の辺境に引っ越した
彼ら夫婦と
意外と距離が近いという事実を知り、
しばしば会って、
一緒に音を鳴らしたり、
彼らの家で、
コンサートさせてもらったりしました。

********

ちょうど、
我が家の子ども2人と、
1歳違いの子どもがいて、
とても「仲間」「同胞」
って感じの友です。

そんな仲良し音楽夫婦が
破綻してしまった。

やっぱり
子ども二人を育てる上での
経済的な生計が要因だったらしい。

旦那さんは、
ギターのセンスが無茶苦茶素晴らしい。
「上手」とかいう次元ではなく、
誰かの鳴らした音に、
心地好く、寄り添ってくれる音を
鳴らす人だった。

*******

音楽じゃ食っていけない。
音楽で食っていきたいけどね。

「野菜を育てたり、
自然と共に在ることも好きだ。」
二人のユニットで奏でる音楽は
まさにそんな音楽でした。

なんか確か、
特定の野菜を育てていて、
それを東京のオーガニックなブランドの
コスメだかアロマだかの企業に出荷する。

そんな契約をして、
音楽の傍、農家をして生計を立てる。
マネタイズをなんとかする。

なかなかラッキーで安定した
生きる計画を得られたな。

少し羨ましい気持ちで
彼らを見ていました。

*******

でも、実情は大変だったらしい。

何が引き金か、知る由もないが
旦那さんが鬱になってしまったらしい。

彼の人柄、ギターの音を思い出す。
精霊のような人だった。
「自己」を主張するのは苦手で、
黙々とギターを弾いていて、
一緒に音を鳴らして、
初めて「ニコッ」とできるような人だった。

物静かなわけではなく、
多動で、スピリチュアルな人だった。

ちょっと想像がつく。

「産業」に
彼の居場所を当てはめるのは
難しいのだろう、と。

*******

家庭を持ち、
家族を持ち、
支え、養い、
生計を立てなければならない。

名前をつけた「何か」をして、
「何か」に価値を付け、
日本社会共通の「対価」を
獲得しなくてはならない。

*******

ここからは僕の話。

そんな現実を目の前に、
1人目の子、2人目の子が生まれる度、
僕もプレッシャーで押しつぶされそうになった。

ほとんど「鬱」だった。

好い曲が出来た。

出来たからって、
何の仕事にもならなかった。

↑長男の出産。
妻の実家で3ヶ月、
寄り添って、共に暮らした。

ずっと一緒にいた。
おむつを選択しまくった。

本当は
「仕事がある」と言って、
ちょいちょい社会と接していたかった。
でも仕事が無かった。
仕事を創れなかった。

・・・現代的価値観に於いての
「男」として情けなかった。

おっぱい、うんちを繰り返す
母と子の営みに、
ただただ「待機」だった。

深夜、寝静まった頃、
車の中で出来た曲が
この「逃亡者」です。

*********

長女が生まれる前、
何とか「音楽」で生計を立てるんだ!
と、
伝手を頼りながら、
SNSで発信しつつ、
西日本を1歳半の長男を連れて
車を運転して
ライブとワークショップをでっち上げて
ツアーをした。

収入より出費が上回る。

立派に個人活動でプロ活動をされている
年に数回ツアーするバンド「風の音楽家」
のピアニストから
ピアノのインストで
「トレインソング」と名付けられ、
電車でガタゴト揺られながら、
「旅から旅の音楽家の暮らし」を
イメージのモチーフに送られてきた
音源を車で聴きながら
げんなりしていた。

「僕にはもう無理だ」
そんなホーボースタイルも
各地に支援者、支持者がいて、
経済的に支えられて成り立つものだ。

僕にはもう無理だ。

そんな暗澹とした気持ちで出来た
「トレインソング」がこれ。

歌い出すまでに5分以上かかってしまった。

一応、一人でレコーディングした音はこれです。

この時、
僕はもう「風の音楽家」は
やめようと思っていた。

でも、
こんな好い曲が出来てしまったので
辞めることをやめました。

それを越えた「風の音楽家」は今、
いい感じです。

**********

長女が生まれ、
子ども二人を育てなきゃいけない
プレッシャーを
僕は独りで感じてしまい、
「独り」の時に、
よくネットの広告に出てくる
「副業で月収100万円」
とかいうやつに入会した。

「ちゃんと働く」という、
世間の常識の方が
胡散臭く感じていた。

実際、今も感じている。

だったら、
「働く→お金」より
「お金=お金」と謳っている
広告の方が正直じゃないか?
と思ったのである。

入会して、色々請求される金額は
前年末に丸鋸で落とした「指」の
保険金で賄った。

指1本落として数十万。
お金は簡単に入る現実と、
これっぽっちしか入らない、
つまらないな。と思った。

そこに入って、
鍛えられ、
全く興味のない世界で
妻にも喜ばれない、
そしてやっぱりそんなに簡単に
稼げる世界ではなかった。

興味のない「将棋」を
一生懸命勉強している感じだった。

・・・金のために。

そして、
勝手に癇癪を起こして、
自転車に乗って家出した。

一晩、ネットカフェに泊まって、
翌朝出来た曲がこれ。

公園で曲を完成させ、
家に帰った。

数ヶ月やって、ネットの「金稼ぎ」は
人生の学びとともに辞めた。

*********

ほとんど「鬱」だった。

好い曲が出来た。

出来たからって、
何の仕事にもならなかった。

*******

また長くなっちゃったな・・・

過去形で言っちゃったけど、
この元夫婦の友人二人、
今も元気に生きてます。

彼女の方とは会ってけど、
彼の方も、会いにいきたいな。

人はそれぞれ、
違う人生を生きる。

で、同じ時代を共に生きている。

ただ、
こんな苦痛、
生まれ得ない社会が在っても
いいんじゃないか?

ということを
書き留めておきたかったのですが
それはまた「後半」に
しようと思います。

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