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「何を今更・・・」だ!

10代。
音楽がやりたかった。
まだ若くて、
拙い表現しかできなかったが、
詩を創って、演奏して、
表現がしたかった。

感じている現実を
表に現したかった。

大人から、
「大人になったら
お金を稼げるようにならないといけない」
と教わった。

音楽をして、
お金を稼げるようになろう。
と想った。

17歳の時、
駅前行って、
ギターケースを広げて
自分の詩を歌った。

誰も聴いてくれなかった。

聴いてくれないけど
お金を投げ入れてくれる人は
たまにいた。

「何か知ってる曲を歌ってよ」
と絡まれた。

有名な曲のAメロか、サビを
少しだけ歌えれば
自分の詩より、
お金がいただきやすかった。

大人から
いろんなお金を得るための
知恵を教わった。

「もっとたくさん曲を作れ」
「もっといい曲を作れ」
「もっとたくさんいろんな音楽を知れ」
「安売りしてはいけない」
「戦略を練らなくてはいけない」
「衣装を考えた方がいい」

抵抗したり、納得したりしながら
僕自身もいろいろ考えた。

どうすればウケるのか。
どうやれば売れるのか。
何をすれば受け入れられるのか。
どんな人に受け入れられるのか。

僕に何が足りないのだろう?
僕は何をもっと学べば好いのだろう?

戦略を練ったからといって、
それを成功させるセンスも
やり遂げる根性もなかった。

そして
世の中での
音楽のニーズも
時代と共に変容していった。

でも、今も
何も変わっていない現実がある。

「何とかして
お金を稼がなければいけない」
という、
「お金」によって
人生が左右される、
選択を迫られる、
何らかの行動には
必ず、お金を支払う人がいて、
それを受け取る人がいる。
という現実だ。

*******

これだけ世の中が変容しているのに
なんでこの現実は変わらないの?

変わるどころか、
ますます強固になり、
地に立つだけで
料金が発生しそうな勢いだ。

所有者に、
その所有物に触れるために
利用者は、
必ず料金を払うシステムになっている。

明にも陰にも。

最終的には
多くの金額を所有する人類に
権利という概念が渡される。

*******

で、
このゲーム、
勝ち目ないし、
勝ち馬に乗れたとしても、
負けて、人生を失う人が
大量にいる世界だ。

********

「こうすればいいよ」
「こうしなけりゃ稼げないよ」

たくさんいただいたアドバイスは
遂には役に立たなかった。

アドバイスを与えた彼らの土台が
すでに崩れ去った。

彼らは今、どうしているんだろう?
彼らも新しい世の中に乗じるために
模索しているのだろうか?

そういえば、
僕の音楽をspotifyやAmazonの
ストリーミングサービスから
聴けるように中継してくれている
ディストリビューターは
かつて日本のミリオンセラーを連発した
エイベックス関連の会社だ。

「天下のエイベックスから
俺もデビューしたんだぜ!」

なんて、恥ずかしくて言えないよ。

********

ライブハウスは
今も、
出演者のチケットノルマで
稼いで店舗を維持してるんだよね?

お金がないと
やっていけない社会だから
仕方がないのかな?

********

「お金がないとやっていけない社会」で
国の借金返済のために
どんどんお金が日本の世の中から
無くなっているみたいじゃん?

「やっていけないんなら、
やらなくていいんじゃないかな?」

と想い出した昨今、
お金を稼ぐことに
プライドを感じなくなってしまった。

確定申告、インボイス、
めんどくささも相まって
出来るだけ
お金を動かさない、
反体制的社会の方が
生きやすいんじゃないかと
想うようになった。

********

お金になる、ならないで
自分の生き方の価値を
左右されるなんて、
何のために生まれて、生きるのか
わからないよね。

かつては
そんなことを考える必要がなかった。

価値は「社会」や「家」が
持っていたから。

そんな価値の礎だった
「家」が崩れ、
「社会」も崩れようとしている。

僕みたいに
「何のために生きるのか?」
なんて、くだらないことを
考える人たちが増えたせいかもしれない。

だから僕は
どんどん自由になってきている氣がする。

感じた通りに
世の中が動いている。

世の中の動きに感応して
僕は生きている。

好い感じもするし、
悪い感じもする。

「あるがまま」だ。

失って 現れる
見えていたものが
あらわになって
洗われて 流れていった

みんな嘘だったように
何にも無かったように
在る

ある / 平魚泳

*******

誰か、個人的に恨みがあるわけじゃない。
いや、「俺様」を認めてくれなかった
個人的な経験の恨み、挫折の数々が、
僕のアイデンティティとなり
積み重なってきた。

挫折を繰り返してきた。
世間に対して、微妙なアプローチをして、
(センスがなかったんだろうな・・)
居場所を確保しようとしてきた。

「あれは挫折だったのだろうか?」
と発想を転換してきている。

発想を転換してみると、
世間に認められなかったことより、
認められようと
色々努力した時間が
「挫折」だったようにも感じる。

*******

あの頃、認めてもらえなかった
「世間」(けっこう親の視点の反映だったりするけど)に
もし、今更、
「お、あの頃よりも
だいぶ良くなったじゃん。
これなら"価値"出たので
ギャラを払わせてもらうよ」
と、
高飛車に言われても、
断固としたプライドで
それを拒否したい。

あの頃も、
僕には十分"価値"があった。
それを認めなかった社会の尺度が
今更、認めてくれるようなことがあっても
なんか、
あまり好い氣はしない。

そんな感覚がある。

******

こんな相反する気持ちのある僕が
「お金持ち」になることなんて
無理だろう。

それでもやはり
今も、かろうじて
「お金持ち優位」に
コトは運んでいる。

BRICSの勃興だって、
今まで価値の基軸だった「ドル」の力が
衰えて、新しい基軸通貨っつうか、
「お金」の権力を移行させようっていう、
覇権の移行だから、
結局、パワーゲームに振り回される僕たち。

********

「よかったよ」
「感動した」
と、認められるたびに
古傷が痛む。

あの頃は、
何もしてくれなかったじゃねーかよ!

あの頃に出逢っていた当人じゃないし、
例えあの頃、あんな冴えない僕をお世話してくれた
当人だったとしても、
今は今だし、
お互い様なんだと想う。

そして今、
僕らは「お互い様」で
出逢いながら
どんな道を
切り拓いていけるだろうか?
と想う。

********

認めてくれなかった人が
認めてくれるようになった。

認められなかった人を
僕は認められるようになった。

丸くなった。

これからどうする?

居心地の悪い場所にいることを
やめる。

自分が居心地悪くなるような
無理な振る舞いをやめる。

世間の価値観を眺める。

自分の価値観を眺める。

相対性を眺める。

そこから自分の振る舞いを決める。

"流れ"が在る。
それを無視することは出来ない。
でも、波の乗り方は自由だ。

バタフライウィンドだって
起きるさ。

同じ顔をした
若者の僕と
老人の僕の顔が見える。

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