地方は老人と外国人しかいない現実
1.はじめに
前回の記事の続きであるが、先日九州旅行に行ってきた。
雄大な自然・美味しい料理・そして温泉と期待していた魅力は確かにそこにあった。
だが、旅の途中でふと気づいた光景が私の心に深い違和感と不安を残した。
それは基本「老人と外国人しかいない」という現実だった。私も地方に住んでおり、以前より薄々感じていましたが、今回より強く感じることとなった。
観光スポットに着いた瞬間、まず目に飛び込んできたのは、シルバーカーを押して歩く老人たちと、カメラを持ってはしゃぐ外国人観光客たち。
年配の方々が静かに歩く後ろで、外国人が楽しそうに写真を撮り、SNSに投稿する姿は、まるで異なる世界が交差しているかのようだった。
だが、どこかバランスが崩れている。
それは、若者や現役世代の日本人がほとんど見当たらないのだ。
2.観光地の喪失感
例えば、有名な温泉街を歩いてみると、その違和感はさらに強くなる。
浴衣姿の外国人観光客が「インスタ映え」を狙ってポーズを決める一方で、地元の老人たちは無言でその横を通り過ぎていく。
かつて、賑わっていたであろう温泉街の商店はシャッターを降ろしたまま。商売を続けているお店も、店内は空席が目立ち、外国人観光客が立ち寄るくらいだ。
私は、思わず地元の商店主に話しかけてみた。
「若い人はあまり見かけませんね」と言うと、彼は苦笑いしながら「若者はみんな都会に行っちゃって、この辺はもう年寄りばっかりだよ」と語った。
その言葉に、地方の現実が一気に突きつけられた気がした。
少子化・高齢化・地方の過疎化——
これらの問題は新聞やニュースで耳にしていたが、ここで目の当たりにした光景が、その重さを現実のものとして感じさせたのだ。
3.外国人観光客の増加と地元の変化
さらに、九州は観光地として外国人にとても人気がある。街を歩けば、英語や中国語が飛び交い、観光案内も多言語対応ばかり。だが、その一方で地元の高齢者たちは静かに日常を送っている。
言語も文化も異なる人々が同じ場所にいるのに、どこか交わらず、それぞれが別の世界にいるような感覚だった。
温泉に入っても、日本人の若者はほとんどいない。外国人が温泉を楽しむ姿を横目に、地元の高齢者たちが静かに湯船に浸かっている。
活気というものが感じられず、時間が止まったような静けさがそこにはあった。
「これが現実なのか……?」という思いが頭から離れないまま、私は他の観光地へと向かった。
しかし、どこへ行っても同じだった。
若者の姿はなく、いるのは外国人観光客と地元の老人たちだけ。この光景が続くたびに、胸の中にじわじわと広がる不安を感じた。
4.未来の日本の縮図
ふと「これは未来の日本の姿なのではないか」という考えがよぎった。
少子高齢化が進む中、若者は地方から都会へ流出し、地方には年老いた人々だけが取り残される。
一方で、観光産業や労働力を補うために、外国人が増加している。
ここで目にした光景は、まさにその縮図だったのだ。
もちろん、外国人観光客の存在は地方経済にとって重要だし、高齢者も長年その地で生活を支えてきた。
しかし、そこに若者の姿がないことが、何よりも不安を煽る。
このままでは地方の活力は失われ、ただ観光客と老人が行き交うだけの場所になってしまうのではないか。
地方が少しずつ静かに朽ちていく様を、私は目の当たりにしてしまったのかもしれない。
観光地としての表面的な輝きはまだ残っている。
美しい風景や温泉、伝統的な街並みはそのままだ。しかし、その裏で確実に進行しているのは、過疎化と高齢化、そして若い世代が都市部に吸い取られていく現実だ。
地方が辿っている道は、他の地方都市にも共通するものであり、日本全体の未来を暗示しているように感じられた。
5.絶望的な未来への予感
この旅を終えた後、私は改めて「未来の日本」を考えさせられた。
少子高齢化が加速し、地方はさらに過疎化していく。観光産業や経済は外国人に依存せざるを得ず、若者はますます都市部に集中する。
ここで目にした「老人と外国人だけがいる光景」は、その未来を象徴しているようだった。
もちろん、地方が全てこうなるわけではないし、地方再生の取り組みも進んでいる。
しかし、私が目にしたのは、地方の現実が厳しいものであること、そして日本全体がその未来に直面しているということだ。
地方の美しい風景と、その裏に潜む静かな絶望。
それを感じた旅は、私にとってただの観光旅行ではなく、日本の未来への一つの警告となったのかもしれない。
6.おわりに
こうした現実を受け止め、何ができるのか、私たちはこれから考えなければならない。
今回の旅行は、その一歩を踏み出すための気づきとなった。