『マチネの終わりに』第六章(61)
長崎へ行く当日の羽田空港では、飛行機に搭乗し、ドアがロックされる最後の瞬間まで、蒔野が来るのではないかという予感を捨てられなかった。
機内に遅れて乗客が入ってくる度に、洋子は息を呑んで目を向け、そして、小さな溜息を吐いた。それは、あえかな期待であるのと同時に不安であり、結局、隣が空席のまま、飛行機が滑走路へと向かい始めた時には、彼女は落胆しつつも、これで良かったのだと自らに言い聞かせた。
長崎空港までは、母が車で迎えに来てくれた。
事前に何も伝えていなかったので、娘が一人で出てきたのを見て、彼女は、「あら、“新しい恋人”は?」と怪訝そうな顔をした。
洋子は、無意識に見るともなく後ろを振り返り、首を振ると、「色々あって。」とぎこちなく頬を緩めた。
母は、しばらくその顔を見つめていたが、やがて、
「あなたの人生も、わたしに劣らず、色々あるわね。」
と娘の苦笑につきあった。
「ヘンなとこが似ちゃったのよ。」
洋子は、気を取り直して軽口をたたいた。
風変わりな母子家庭で長い年月を過ごしてきて、反目した時期もあったが、洋子は近年、ますます母と気心の知れた友達のようになっていた。
母が歳を取り、また、自分が歳を取ったせいかもしれない。
飛行機に乗る時に電源を切っていた携帯電話を、一旦は取り出したものの、電源は入れずに敢えてそのままにしておいた。
静養という意味では、恐らくそうすべきだった。
洋子の実家は、街の中心地よりやや南の方で、グラバー通りから少し登ったところの小高い丘の上にあった。
石垣の上に庭が設えられた古い日本家屋で、中には、母のヨーロッパ時代の記憶を喚起する品々がそこかしこに置かれている。サラダの水切り用の取っ手がついたザル一つ見ても、洋子は、ジュネーヴのアパートにいた頃の懐かしい日常を思い出した。
第六章・消失点/61=平野啓一郎
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