『マチネの終わりに』第八章(42)
蒔野は、曖昧に頷いて、是永から視線を外して考えた。
「どうかしました?」
「ああ、……いや。」
あの頃は、毎日のようにスカイプで会話を交わしていたはずだった。洋子はそれを、隠し続けていたのだろうか? それが、あの東京に来た時の態度の急変の理由だろうか?
恩師の危篤には駆けつけるのに、自分の苦しみにはどうして気づいてくれないのかと。
彼は、翌日の朝、洋子とメールでやりとりした時の不可解なメッセージを思い出した。とにかく、会おうと言った彼に対して、彼女は、「ごめんなさい。もうこれ以上、このやりとりを続けられない。」と、唐突に会話を打ち切ってしまったのだった。
ひょっとすると、あの時も体調が悪かったのだろうか? それで、あんなに急いで長崎の実家に行ってしまったのか?
しかし、それなら猶更、自分を頼ってほしかった。なぜ言ってくれなかったのか? 祖父江への付き添いを優先させようとしていたのだろうか?……
武知だけではなかった。自分は、あれほどまでに愛していた洋子の苦しみにさえ気づくことがなかったのだと、蒔野は悔恨した。
思い出が変質してゆくのを感じた。そして、洋子には詫びを言いたかった。
早苗が蒔野にすべてを打ち明けた時には、こんな次第で、彼自身が既に、真相のかなり近いところにまで迫っていた。パリで独り苦しんでいた洋子が、かわいそうでならなかった。彼がどうしてもわからなかったのは、彼女がなぜ、自分に助けを求めなかったのかということだったが、彼はそのために、二人の愛そのものをも懐疑せねばならなかった。そして、もう随分と崩れやすくなってしまっている彼女の記憶に触れてみては、悲しげに問うてみるより他はなかった。
洋子との別れの日から、三年以上の月日が経っていた。
ある日、自宅で一緒に昼食を取り終えると、早苗は憔悴し、少し紅潮した面持ちで、蒔野に話がある、と切り出した。その深刻な様子から、蒔野は咄嗟に子供に何かあったのではないかと心配したが、早苗が最後に意を決したのは、その彼の反応のせいだった。
第八章・真相/42=平野啓一郎
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