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『マチネの終わりに』第七章(15)

 今日は、口を開けばそうなるに決まっているから、とにかく黙っているつもりだった。それが、蒔野のことを考えたせいで、つい、昔彼とよくスカイプで喋っていた頃のことを思い出して、その口調になってしまった。ここにいるのは苦痛だったが、この話を彼としたなら、きっと楽しかっただろう。

「本音では、サブプライム・ローンみたいな、最初から焦げつくことがわかりきってる債権を、証券化して世界中にばらまくなんて、ムチャだったって思ってるんでしょう、みんな? それで自分たちだけは税金で救済されて、疚しい気持ちにはならないのかしら? 片や家も職も失って、路頭に迷ってる人たちがあんなにたくさんいるっていうのに。」

 ヘレンは、鼻で笑って、自分のマティーニを飲み干した。

「あなたって、美しい人なのね。わたしたちとは、全然違う。着飾って、この場に溶け込んでいるように見えても、やっぱり元ジャーナリストね。――でも、誰も、ただぼんやりしていてお金持ちになったわけじゃないのよ。与えられた自由を最大限活用して、ようやく今の生活を手に入れたの。ゲームをゲームだと百も承知の上で、プレイヤーとして参加して。たくさんの犠牲も払ってる。競争社会を生き抜くためには、知恵も必要よね。この寒空の下で、家もなく生活している人たちは気の毒だけど、彼らだって、束の間でも、サブプライムのお陰で、一生住むことの出来ないような贅沢な家に住めたんだから。ローンは、わたしたちだって、ちゃんと払ってほしかったわよ。そうすべきよね、お金を借りてるんだから。誰が悪いの? ローンを払わなかった人たちでしょう? こっちは被害者よ。」

「騙してるでしょう、お金を借りた人たちも、その危険な証券をAAAなんて格付けして買った人たちも。」

「いい大人なのよ、彼らも。グローバル化して、世界はとても複雑になってる。勉強しないと。それを怠けて損をしたって、自分の責任でしょう?」

 洋子は、相手を刺激しているのは自分だと承知していながらも、小馬鹿にしたようなその口調が癇に触った。


第七章・彼方と傷/15=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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