『マチネの終わりに』第八章(41)
しかし、決してそうはならなかった。洋子は最後まで、微塵も取り乱すことなく、ただ深い憂愁を湛えた目でこちらを見据えていたが、それはほとんど、イエスの前に座るマリアが、マルタを見上げるような憐れみの眼差しと感じられた。
「それで、……あなたは今、幸せなの?」
と洋子は問うた。自分が今、何よりも訊かれたくなかったそのことを。――本当にそう尋ねられただろうかと、早苗はぼんやりと振り返った。まるで、自分の心の声が、記憶の中の彼女に入り交じってしまったかのようだった。
武知の死後、蒔野は元ジュピターの是永から、二年半ぶりに連絡を貰っていた。
渋谷のカフェで会って、一時間ほど話をしたが、わだかまりなく会話が出来たのは、彼女の手元に残っていた武知の音源の扱いについて話をしたからだった。
蒔野は、何らかの形で発表する方法を考えると伝え、彼女はよろしくお願いしますと頭を下げた。それを託されたまま、CD化出来なかったことを彼女は悔いていた。
蒔野は、武知との最後の温泉宿での会話を少し是永に話した。死因については、彼女も察していたらしく、途中で涙ぐんだ。あまりその状態に長くは留まりたくなかったので、話の流れで、蒔野は洋子のことにも触れた。是永は、このところやや疎遠で、離婚の事実も知らなかったので、ただ、ケンが生まれた時の幸せそうな様子だけを伝えた。そして、リチャードと結婚する前、彼女がどれほど、イラク体験のPTSDに苦しんでいたかを蒔野に語った。
「誰にも言わずに、独りで苦しんでたみたいです。わたしも、結婚後に初めて聞かせてもらいましたから。リチャードの支えがなかったら、もっと悪化してたと思うって言ってました。彼女は強い人ですけど、よっぽど辛かったんだと思います。」
蒔野は、眉間の皺を深くした。そして、
「それって、いつ頃の話ですか?」
と尋ねた。
「イラクから帰ったあとです。蒔野さんが、レコード会社を変わった頃じゃないですか? 蒔野さんは、連絡は取ってなかったんですよね? とにかく、大変だったみたいです。あ、そうそう、イラクから逃れてきた難民の女性の世話もしてて。……」
第八章・真相/41=平野啓一郎
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