『マチネの終わりに』第八章(49)
「お前の意識の問題じゃない。一体、何が今日――昨日でも明日でもなく――お前をこの場所まで連れてきた? 何がお前を今ここに存在させている? もし今ここで誰かが銃を乱射したなら、問題はその事実じゃないのか? 《ヴェニスに死す》のアッシェンバッハにせよ、タッジオを追っているつもりで、本当は追われていたんだよ。」
「そこまで言うのなら、どの道わたしには、自分の運命を避けるべき手立てもないでしょう?」
洋子は、打ち解けた笑みを失わないままの表情で父に反論した。
「お父さんの映画には、人生はどこまで運命的なのかって主題がずっとついて回ってるけど、今はどうなの? 人間の〈自由意志〉に関しては、やっぱり悲観的?」
ソリッチは、ステーキを少し残したまま、ナプキンで口元を拭った。そして、しばらく考えてから洋子の顔を見据えたが、そういう仕草が、別々に暮らしたはずなのに、どうしてそんなに父と娘で似ているのかと、先日も長崎の母が呆れたように言っていた。
「自由意志というのは、未来に対しては無くてはならない希望だ。自分には、何かが出来るはずだと、人間は信じる必要がある。しかし、洋子、だからこそ、過去に対しては悔恨となる。何か出来たはずではなかったか、と。運命論の方が、慰めになることもある。」
洋子は、父の目が、深い眼窩の奥で、引き絞られるようにして力を帯びたのを認めた。そして、
「そうね。……よくわかる、その話は。現在はだから、過去と未来との矛盾そのものね。」
と頷いた。父が念頭に置いているのは、凄惨な紛争を経験し、解体されたユーゴスラヴィアの歴史であるはずだったが、洋子の胸を咄嗟に過ぎったのは、もっと遙かに小さな、私的な記憶だった。
彼女は、早苗から聞かされた蒔野との別れの真相を思った。それはなるほど、まったく仕方がなかったというわけではなかったのだった。避けるべき方法は、あとから思えば幾らでもあり、だからこそ、彼女は余計に苦しんでいた。必ずしも難しいことでもなかったのではないか? 蒔野と連絡を取りたかったし、取るべきだということは、わかりきっていた。にも拘らず、どうしてもそれが出来なかった。――しなかった。
第八章・真相/49=平野啓一郎
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