『マチネの終わりに』第六章(59)
蒔野は、洋子の自分に対する態度に、これまで知らなかった冷たさを感じた。
自分に会いたくないのではないか? 長崎に同行しないとなると、彼女とは、今日と長崎から戻ったあとの二日しか会えないことになる。それならそれで、もっと早い時間に連絡をくれても良かったのではないか?
「もちろん、長崎に行っても落ち着かないとは思うけど、とにかく、会って相談しよう。今どこにいる?」
洋子からは、しばらく返事が来なかったが、それは、彼女がいつも、真剣に物事を考える時に必要なあの時間の長さのように感じられた。
やがて届いたメールに、蒔野は茫然とした。
「実はもう、長崎に来ています。」
「どうして? 飛行機は明日でしょう?」
「ごめんなさい。今はこれ以上続けられない。」
「どうして?」
しかし、洋子からの連絡はそれきり絶えてしまった。
*
長崎に移動してからも、洋子の心は揺れ続けていた。必ずしも、蒔野にもう会うまいと決心していたわけではなく、むしろ、いつ、どんなかたちで会うべきかを考えていた。
一日早く東京を発ったというのは、苦し紛れの嘘だった。今から会いたいという蒔野の言葉に、覚えず腕を引かれそうになったが、前夜に届いた二通のメールと同じ内容を告げられ、「洋子さんならきっと理解してくれると信じてる」などと言われて、冷静でいられる自信はなかった。彼の心情を思いやりたかったが、今はその悲しみに、とても耐えられそうになかった。
蒔野の真意も、今一つ計りかねていた。気遣いのつもりであるとするなら、幾ら何でも月並みで、浅はかすぎるのではあるまいか。そういう人だっただろうか? それは、彼女にとっては侮辱的で、彼自身にとってはほとんど自己愛的でさえあった。
昨日まで、自分は彼にとって特別な人間なのだと信じていられた洋子は、一通目のメールの内容と言うよりも、むしろその文体に深く傷ついていることにようやく気がついた。
第六章・消失点/59=平野啓一郎
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