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『マチネの終わりに』第七章(34)

 蒔野に自分の介護を手伝わせていることを酷く心苦しく感じていて、しかし、誰かの手を借りなければ、その負担は、二人目の子供が生まれたばかりの娘にすべて伸しかかってしまう。

 蒔野は、祖父江のその葛藤を察し、「いやいや、先生も弟子が多くて、僕もこのところ嫉妬してましたから、独り占めに出来て喜んでるんですよ。」などと笑い飛ばしていた。早苗は、そうした状況の中で、祖父江の介護だけでなく奏(かな)の子供の面倒や買い物の手伝いなどを、嫌な顔一つせずに引き受けた。蒔野が、彼女に惹かれていったのは、そうした姿を見ていたからだった。

 祖父江は、少し顎を引いて顔の右半分の震えを堪えると、不自由な左手でハンカチを取り出そうとして、地面に落としてしまった。蒔野はそれを拾うと、土混じりの細かな木の葉を払って手渡した。右手でそれを受け取った祖父江は、涙を拭うことはせずに、ただ膝の上で握っていただけだった。

 姿勢が良く、かくしゃくとしていて、遠目にはとてもそんな病身とは見えないだろう。見ているだけでも苛々してくるような不自由な生活の中で、祖父江はただの一度も自分や早苗は固より、奏にさえ感情的になったことがなかった。

 蒔野は改めて、自分は本当に立派な恩師に恵まれたのだと、敬服していた。

「まぁ、でも、先生のリハビリに比べたら、なんてこともないですよ。本当に、あの日は僕も覚悟してましたから。……そのあと、意識が戻って、よくぞここまで回復されたと、頭が下がります。」

 祖父江が倒れた夜の記憶が、蒔野の脳裏を過った。そしてやはり、洋子のことを思い出した。

 あの夜、祖父江の側に居続けたことは、決して間違ってはいなかったのだと、彼は考えた。そして、洋子はそれを当たり前に理解し、翌日か、その次の日にでも会って、今日という日には、ここに一緒にいて、アール・デコ展についての何か目を見張るような感想で祖父江を喜ばせていたのではなかったか。


第七章・彼方と傷/34=平野啓一郎

#マチネの終わりに

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