『マチネの終わりに』第八章(8)
ジャリーラと直接話す前に、もう少し詳しく情報を知りたかったので、久しぶりにフィリップとスカイプで喋った。PTSDに苦しんでいた時期には、イラクのニュースも意識的に遠ざけていたので、訊きたいことは山のようにあった。ジャリーラの家族の話だけでなく、支局にいたスタッフらの消息も気になっていた。
フィリップは、名前を挙げる度に、硬い表情で首を横に振った。洋子も、仕舞いには先を続けられなくなって、しばらく口を噤んでいた。それから、話題を政治状況についての一般的な方面に転じた。一時間近くも、彼女は一瞬を惜しむようにして会話に没頭したが、そういうことは、ニューヨークに来て以来、ついぞなかったことだった。
やがて、彼女自身の近況に話が及ぶと、離婚したことを打ち明けた。
フィリップは驚いた表情をしたが、すぐに、
「おめでとう。また新しい人生が始まるよ。」
と煙草に火を点け、一服してから続けた。
「俺は、君はてっきり、あの日本人のギタリストと結婚するんだと思ってたよ。バグダッドで、あれだけ毎日、彼の演奏を聴いたからね。リチャードとは、もう婚約してたけど、そんなの、どうにでもなる話だから。――ああ、東京に転勤届けも出してたんじゃなかった?」
洋子は、苦い笑みを微かに頬に含んで下を向くと、髪を掻き上げ、首のあたりで押さえながら言った。
「好きだったのよ、本当に彼のことが。あんなに誰かを好きになったことはなかった。――でも、フラれちゃったのよ。」
フィリップは、信じられない、というふうに眉を顰めると、
「大した野郎がいるもんだな。」
と言って嘆息し、ぼんやりした目で少し考えてから、改めて独りで首を横に振った。
「パリに戻ってきたらどうだ? みんな寂しがってる。」
「それもいいけど、子供がこっちにいるから。」
「俺なら、まだ独身だよ。」
フィリップは、本気ともつかない表情で洋子を見据えた。
第八章・真相/8=平野啓一郎
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