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植物と会話する

庭の植物を眺めるのが好きだ。

私の家にはとても小さな庭がある。
その小さな庭に数種類の植物の鉢植えがある。
大体が多年草の草花か低木だ。
背の高い樹木もほんの数本だけある。
そんな小さな庭。

鉢植えの植物のうちでも長いものはもう20年近くの付き合いになる。
最初は小さなビニールポットに植えられた苗を買い求めてきたものだ。
この家に越してくる前、狭いアパートのベランダでひっそりと育てていた。

そのベランダがいくつかの植物で満たされ始めたころ、小さな庭つきのこの場所へ引っ越してきたのだ。

引っ越した当時は、小さな庭といえども狭いアパートのベランダと比べるとずいぶんと広く感じられた。
私と一緒に引っ越してきた植物たちは、馴染みのない広い空間にポツンポツンと置かれて頼りなさげにみえた。

自分の庭があることが嬉しくて、私は陶器でできた植木鉢をいくつか買い、ベランダから持ってきた植物を植え、新たに果実のなる植物の若木を買ったりした。
いつの間にか私の庭は植物でいっぱいになっていた。

あんなに小さくひ弱だったビニールポットの苗は、いつの間にか堂々とした低木になった。
ほかにも、株分けをしたり、こぼれた種から増えたりして鉢の数はどんどん増えていった。

長い時間をかけて観察するうちに、植物の一年間のサイクルを知るようになり、季節の移り変わりを以前よりも実感できるようになった。

私は庭の植物の剪定をするのが好きだ。
特に初夏から盛夏にかけて、ぐんぐんと伸びる植物をばっさばっさと剪定していく作業は気持ちがよく、いいストレス解消法になっている。

問題は切り落とした後の葉の先端部分。
さっさと捨ててしまえばいいものを、毎回何となく踏ん切りがつかなくて、空いている鉢に土を入れ、その切れ端を突き刺し、水をたっぷりかけておく。
切り落とした葉先にはまだ生長点が残っているので、それを捨てるのが忍びなくなってしまうのだ。
まだまだ生きているよ、と訴えられているような気持になってしまう。

そうして土に挿した葉は、生命力の強い植物の場合、そのまま根が張り翌年には新たに花をつけたりする。それが何とも言えず嬉しい。
その為に植物を育てているような気すらする。

そうやって毎年、数が増えたり減ったり、花がたくさんついたり、元気がなかったり。いつの間にか植物たちのコンディションが何となくわかるようになった。

朝、起きるとカーテンを開け、小さな庭をぐるりと眺める。
水を欲しそうに見えたり、元気がなさそうに見えたり。
雨上がりに水分をたっぷり吸って、葉が勢いよく広がっているのを見ると、元気だね、と嬉しくなる。

風に吹かれている植物の葉を見ていると、何かを語りかけられているように感じるときがある。
私はそれをぼーっと眺めるのが好きだ。
いつもは考え事でいっぱいの頭がその瞬間は無心になれる。

剪定されてすっきりとした植物たちが新たに生長点から新芽をのばす。
水をたっぷり吸いこんで、美しい緑の葉を輝かせる。

そんな葉のひとつひとつを見ているうちにわたしの心がリフレッシュしていくのがわかる。
その一連の心の動きは、誰かとおだやかな会話をしている時とそっくりだ。

だから、私にとってそれは「会話」と同じこと。
そして植物たちを生き物のように眺め、愛おしくおもう。
物言わぬ彼らを無言で眺め、私たちだけの会話をかわしているのだ。

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