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クローズアップ現代 短歌特集

3月14日、「空前の“短歌ブーム”は何映す 令和の歌に託した思い」と題して放送されたクローズアップ現代の短歌特集の中で取材をしていただいた。
ご覧くださった皆様ありがとうございました。
自分のパートだけでなく、番組全体を通して短歌の良さに満ちた内容だったと思う。岡本真帆さんの歌集も持っているし、筋肉短歌会に歌を送ったこともある。日向市のマッチングには参加できなかったけれどチェックはしていて、良いなぁと思っていた。
放送中、そして放送後も、さまざまな方が感想やメッセージをくださった。Twitterに投稿された感想も、すべてに目を通せたかは分からないが、名前を含めていただいたものはできる限り探して読んだ。
なんと母からは、小学校の入学式で手を繋いで入場した女の子のお母さんからも連絡が来たと聞かされた。
この歳になっても、まだまだいろんな人が見守ってくれていることが分かってよかった。僕はいろんな人からもっと見放されているのかと思っていた。いや、確かにそれはそうなんだろう。僕を見放したり遠ざけたりしている人はたくさんいる。でもそうじゃない人がいてくれることをとてつもなく優しくて愛しい大きな力で思い知らされた。おかげであとはもう頑張っていくしかない。突き進んでいく理由が増えて、心強いよ。

どうして僕が取材の対象に選ばれたのか。
これはもう「京都に行けたから」で間違いない。
番組のディレクターさんとは京都で知り合った。今年の1月15日。そう、文学フリマ京都7が開催された日だ。
東京に住んでいるので、京都の文フリに参加するハードルは高かったはずなのに、思いついたその日には宿も新幹線も取っていた。遠征の費用もばかにならないし、そもそも参加費を回収するのにも毎回苦労しているくらいなのだから二の足を踏む理由は探せばいくらでもあった。だが、自分の歌集をもっとだれかに手渡したいという思いが勝ったのだろう。それが結果的にクローズアップ現代にまでつながったと思うと不思議でならない。むしろ、京都へ行こうと決断できる環境にいられたことを幸運に思う。土日に仕事が休みだったり、背中を押してくれる人がいたり、一人分の旅行代を捻出できたりすることは当たり前ではないのだ。
当日、会場の様子を撮影し、たまたま声をかけてくださったのが番組のディレクターさんだったことは、京都から帰宅後、不意に届いた取材依頼のメッセージで知ることとなった。

文フリ京都で、僕は【あ-31】のブースにいて、一緒に机を並べる大勢の参加者さんたちを見つめながら、あるひとつの思いにとらわれていた。
「みんな、どこいった」
大学時代、一緒に小説家を目指していた仲間たちのことを思い出していた。
文芸学科という、作家を目指す人たちが多くいた場所で、僕は友達に恵まれた。何だか全然ぱっとしなくて常にいらいらしていた高校生活をやっと抜け出して入った大学で、自分と同じように作家を目指す人たちと、小説の話をして四年間を過ごした。就職した人もいるし、しないで書き続けることを選んだ人もいた。それぞれに人生を選び、僕もいろんな選択を迫られ、書き続けながら、もがきながら、なんとか日々をやり過ごしている内に、一人、また一人と連絡を取らなくなって、気づいたら全然だれもいなくなっていた。みんなうまく社会と折り合いをつけて、僕だけがまだ作家なんて幻想を見ているんじゃないかと恐ろしくなった。
でも、きっとまだみんなどこかで書き続けていると思うんだよな。どうしてもそう思ってしまう。本当はとっくに書くことなんてやめていたとしても、作家の心は残っているはずだし、隙あらばきっとまた書き始めたいに決まっている。一度作家を目指した人間は、きっとそういうものなのだ。もちろんきっぱりと文芸から縁を切った人がいるだろうことも分かっている。良いことばかりじゃないから。僕だってそうだった。
だから、今回、取材をしていただくことで、「まだやってるよ」って、今もちゃんとどこかで自分の人生を頑張ってる仲間たちに伝わればいいなと思った。いろいろあったし、あの頃に目指していたものとはちがうけれど。
続けていることを誇りたいわけじゃない。続けてこられたことは単なる結果でしかなくて、僕はあの頃のまま変わってないからいつでも会いに来てほしいよ、また話したいよって、そんなことを言いたいだけだ。

取材の中で、短歌を始めたきっかけとして萩原慎一郎さんのことをお話させていただいた。その部分を放送でも流していただいて本当に良かった。現代社会の若者の苦労や、それこそ萩原さんの生涯とともに語られることの多い歌集ではあるけれど、一人の人間に短歌を始めさせ、前を向かせてくれた歌集でもあることを伝えられたのではないか。
放送では流れなかったけれど、歌集のタイトルにもなった滑走路の歌について、僕は読む人の心や気持ちが問われる歌だと思うと話した。とても前向きで、希望にあふれた歌に読める時もあるし、滑走路はもう用意されているのに、きみは翼を手にすればいいだけなのに、どうして? と訊いてくる歌でもあると思っている。あるいは萩原さんが自身に向けて問うた歌なのかもしれないとも感じている。「翼を広げればいい」ではなくて「手にすればいい」とあるのは、まだ翼がないということなのだと思うからだ。だからこそ僕にはこの歌を読むとき、自分に訊ねる。
翼を手にできるか、と。

最後に、撮影をしてくださったスタッフの方々について。
とてもとても親切な方々だった。何者でもない僕に対しても気配りを忘れず、撮影が滞りなく進むよう、こちらのプライベートや生活を妨げることのないよう尽くして下さった。
僕の撮影のあと、時間ぎりぎりのなか高知へ移動するということだった。放送を観た方なら、どこへ向かったか分かるだろう。
撮影は僕の誕生日前日だった。撮影は人生のなかでも指折りの素敵なプレゼントになった。

都庁

僕が写真を撮るシーンが流れたと思う。
その時に実際に撮った写真。
体を壊してやめた会社への通勤路を歩きながら、当時のことを思い出して話した。
そのあらましは歌集『自転車修理屋』のあとがきに書いた。
けっこう笑えると思うので、読みたくなった方は、ぜひこちらからどうぞ!

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