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日記(おしゃれをして自由への扉を開こう)

早朝に過ごす一人の時間が好きだ。お気に入りの過ごし方はいくつかある。冬だとこたつに座ってぼーっとし、外に流れる音を聞く。ぼんやりしながら浮かんできた言葉たちを書き留める。私は本を読むのがとても好きだけど、朝は人の言葉を内に入れるより自分の中にある言葉たちと向き合うのが心地いい。自分を大事にしているという安心感があるからだ。

今朝は画集を手に取った。絵の教養は無いに等しい。だから何かを人のために話すことはできないけれど、ただ自分のために絵を眺めるのが好きだ。絵を見ながら感じたことをやっぱり書き留める。書きながら「これってどういうことだろう。」と疑問に思ったことを掘り下げる。それは他者との対話であり、自己との対話である。

今日はある絵を見て、「おしゃれってどういうことだろう。」と思った。大学の同期におしゃれへの関心が高い人がいた。彼女が鷲田先生の本を読んで文章を書いていたことを思い出す。だけど私はまず自分の言葉で考えてみたいと思った。少し時間をかけてそれを重ね、その上で先生の本を読んだり彼女に話を聴いてみたりするのはとても楽しいだろう。

「おしゃれ」というと、すぐに「自己表現」という言葉がセットになって思い浮かぶ。しかし私はいわゆる「おしゃれさん」ではないので、私はそこまで至っていないと思った。とはいえ、きっとそこまで至っていないということ自体が無意識裡に表現されてしまっているのだろう。

自分の好きなもの、愛するものを身に着けたい、と私は素直に思う。それがきっと自己表現につながっていくのだろう。きっとそれは自分に対する愛情の現れでもある。自分をケアする気持ちの表現というのか。何より好きなものを身に着けることは単純にうれしい。

10代の頃、私はおしゃれが苦手だった。人からおしゃれに思われたくて、何を着ていいのか分からず苦しかった。自分が何を好きなのか知らないのに、外からの視線や評価ばかりを意識していたのだろう。それは私にとってストレスの高いものだった。

その中で私は「選ぶ」ことを通して少しずつ自分の好きなものを知っていった。「分からないなりに選ぶ」ことは大事だ。「分かる」ことは「選ぶ」ことに先立つものではない気がする。

まず一度選ぶ(決める)ことで似合う・似合わないが分かる。なぜ自分がそれを選んだのか、他のものを選ばなかったのかを考えることができる。選ぶことは同時に結果を引き受けること。つまり行動するということは責任を持つことなんだ。その積み重ねが自由につながっていく。

選んで身に着けてみると、似合う・似合わないということ一つとっても、他人と自分の認識に重なりがあったり反対にズレがあったりすることに気づく。「人にはそう見えるのか。」という別の角度から見た新しい自分の発見になる。「でもやっぱり自分はこれが好き。」ということが分かるかもしれない。こんな風に私は自分の好きな服、自分の好きな表現の仕方を少しずつ身に付けてきたように思う。

今日は何を着ようか。スカートの気分だな。なんでスカートがいいと思ったのかな。どうして長いスカートばかり持っているのかな。落ち着いた色合いのスカートが好きなんだな。洋服一つ、選ぶのにわくわくしてきた。きっと今日も素敵な一日になる。


 

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