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日記(信頼は安心感の中で育つという話)

「ゆっくりいこうね。」

 12月の土曜日。書類の受け渡しをするために、私はある人と会う予定になっていた。しかし、私の体調が優れず、翌日にずらしてもらった。時間は翌朝私から連絡することになっていた。

 翌日の朝、私は起きるのがずいぶん遅くなってしまい、起きてすぐに内心焦りながら彼女にLINEした。彼女の予定を聞くと、空いている時間帯をいくつか教えてくださった。

 本来なら私はすぐに「〇時にうかがいます。」と返信した方がいいんだと思う(というのは私の思い込みかもしれないけど)。だけど起きたばかりで頭が働いていなくて決められなかったので、それを素直にお伝えして、「お昼前までには時間を決めて連絡します。」とLINEした。

 すると彼女からは「ゆっくりいこうね。」というスタンプが返ってきた。私はとてもほっとした。ありがたかった。

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恐怖心が裏側にあることの弊害

 私が「(早く)〇〇しなきゃ。」と思うとき、その背景には焦りや恐怖心があることも多い。それは、そうしないと相手に迷惑をかけてしまうだとか、相手を怒らせてしまうということに対する恐怖心だ。

 だけど本当は私は人一倍自分のペースで生きたい人間なのだと思う。そうしないと混乱してしまう、とても不器用で適応が難しい性質を持っている。

 たぶん世の中には、たとえ予定のある日に寝坊しても「寝坊したので夕方に行きます。」と、あまりストレスを感じずにパッと予定を決めてささっと連絡できる人もたくさんいるだろう。

 しかし私はそうではない。寝坊した時点でパニック、そしてある程度決まった自分の朝のルーティンをこなすまでは正常な思考もできない。そしてたぶんそういう人はこの世に私だけではなく、大勢いる。

学校教育や家庭教育の影響

 たぶんそれは私が元々持っている性質に加えて、学校でも家庭でもそういう教育を受けてきたからというのが大きい。

 ちょっと極端な言い方をするけど、そこでは、自分の性質がどうであるかということはさておかれ、「〇〇であるべし」「〇〇でなければならない」という絶対的なルールがあって、それを厳守することが求められる。ルールを守ることが最低ラインで、それをクリアしないときには人格が否定される可能性もある。その世界では過程がどうあれ結果が重視される。

 そうなると、たやすくルールを守れる人は生きやすく、そうでない人は本人の望まない声かけをされることが多くなってしまう。たとえば、「早くしなさい」「どうして早くできないの」「どうしてあんたは自分のことしか考えられないの」「もっと人のことを考えなさい」。私が繰り返しかけられた言葉の数々。

 それはできればかけられるのを避けたい言葉なので、それを回避するために努力する。時には、反対に開き直ってしまう場合もあるかもしれない。しかしルールを守るためにかかったエネルギーは見過ごされる。

 そしてそれは繰り返される。つまり、それを受けて育った私は、よほど意識していないと、自分の子にもそういう声かけをしてしまう。

 そういう言葉をかけられたときに私がどうなるかというと、小さなパニックを起こす。委縮してしまう。冷静にどうしたらいいかということを考えることができずに、ただ目の前の人を怒らせないためにはどうしたらいいのだろうということに思考が回ってしまうので、焦点がずれてしまう。自分を守るために、相手からしたらものすごくずれていて自己中だと感じかねない返しをしてしまうときもある。

 念のために書いておくのだけど、これはこの発言をした人を責めるための文章ではない。ほとんどの人は両方の立場の経験があるだろう。人にはそれぞれ様々な性質の違いがある。コミュニケーションというのは、そのことを前提として、相手を慮って信頼関係を築いた上に成り立つものだと思う。

 しかし、日常の忙しさや心の余裕のなさから、またそれらを言い訳にして、どうしても前に書いたような発言が多くならざるを得ない部分がある、ということなのだと思う。

 また親と子、教師と生徒(児童)というものはどうしても親や教師、つまり大人(年長者)の方が立場が強いので、子ども(年少者)の方が大きく影響を受けてしまう。

信頼は安心感のもとに成り立つ

 私がコミュニケーションに困難を抱えてきたのは、こういうことが無数に起きているのに、その全体像を認識できていなかったというのも大いにあるのではないかと思っている。

 相手の発言に言外の意味はないのに、相手の表情や雰囲気や口調など同時に発せられる情報から怒りや叱責を受け取ると、委縮してしまって真っ当なコミュニケーションができずに、摩擦を生じてきたのだと思う。

 そのとき、私は相手を信頼できていないし、相手もまた私を信頼できていない。信頼の前提となる敬意が省かれてしまっているからだと思う。双方に敬意を示す時間的・精神的余裕がないというのが現実かもしれない。そうなると、一方は感情を害され、また一方は深く傷つく。

 信頼というのは安心感のもとに成り立つのではないかと思う。自分が思っていることを素直に伝えても、相手は怒らない、この人は私を傷つけないという安心感。それを双方が持っていること。

 彼女が私にくれたのはそれだ。心からありがたいと思う。彼女やそのほか数人の人たちが私にそれを教えてくれた。

 そして彼女たちにこの話をしたらきっと、口々に「それはあなたが素晴らしいからよ。」と声をかけてくれるだろう。私はそのことを深く、涙が出るくらいありがたく思う。

 私は30代になってようやく、人と信頼関係を結ぶことがどういうことなのか、具体的に学び始めた。今からでも遅くない。一つ一つ信頼の上に成り立つ関係を築いていきたい。少しずつ。

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