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スイスで介護ヘルパー!その10「鬼ババア⁉ いや、そこまでは!ミューラーさん(第一話)」#入居者さんの思い出  


いつまでも忘れられない入居者さん


 新入社員が、ある入居者さんに手を焼いているとぼやく。先日も、「Aさん、あれこれうるさいんだよね。代わってくれない?」などと言う。
 そんな時、私がいつも思い出すのはミューラーさんのことである。

 ミューラーさんを経験したら、その後は誰を担当しようと楽勝である。ミューラーさんに比べたら、AさんもBさんもかわいいもんだ。
 ミューラーさんのことを、陰でヘクセと呼ぶ同僚もいたほど。ヘクセとは魔女のことだが、文脈によっては「鬼ババア」という意味になる。
 彼女が「ミューラーさん?あのヘクセ!」と言うのを聞いて、私は思わず笑ってしまったが、共感はしなかった。かといって反論することもなく、そのままになっている。

 この「#入居者さんの思い出」に登場するのは、私にとって思い出深い、愛着があった方々ばかりである。が、今回は別の意味で忘れられない、ミューラーさんについて書こうと思う。
 

優雅なフランスのマダムと思いきや・・・


 旦那さんの苗字であるドイツ語名を名乗ってはいるが、ご本人はジュネーブ、つまりスイスのフランス語圏の出身である。母国語はフランス語であり、高貴なお姿は、まるでフランスのマダムのよう。お背は小さく、やや猫背ではあったが、髪は毎週美容院に行って完璧にセットしていたし、(ジャージでなく)小奇麗なTシャツとパンツを身にまとい、ブランドものの眼鏡をかけ、(快適サンダルでなく)黒い革靴をはいていた。

 あと少しで100歳に手が届く、そんなご高齢のわりにはお肌がすべすべで、お顔にはまったくしわひとつない。多少ふらつくので歩行器は手放せないが、自分で立ち上がることはできたし、食事は一人でできたし、さらに頭もしっかりしていた。スイスドイツ語は聞いて覚えたらしく(語彙が限定されていたため私には非常にわかりやすい)、普通に話ができた。何度もくりかえし同じことを言ったり、最近の記憶が抜け落ちたりといったこともなかった。

 そう、だからこそミューラーさんは、実に手ごわい入居者さんだったのである。
 

担当できる人とできない人


 入居者さんの症状により、ヘルパーで充分な場合と、もっと上のポジション(看護士レベル)が担当する場合とがある。お世話はヘルパーが担当するが、医療行為(注射や消毒など)だけ別の人を呼ぶ、ということもある。
 しかしそれ以外に、ある入居者さんを担当できる人とできない人がいるケースがある。「あの人はどうも苦手」など、いわゆる相性の問題である。私も苦手を作らないようにしてはいるが、ある程度はしょうがない。例えば私に対してだけセクハラしてくる人なら、さっさと代わってもらう(たった一度不快なことを言われた、などという場合、それを気に病む必要はまったくない。向こうは忘れているし、だいたい日によって性格が変わる人たちなのだ)。

 さらに入居者さん側から、リクエストが出ることもある。同性を希望する人、逆に異性を好む人。 
 ミューラーさんの場合、とにかく自分の思い通りにしたいので、それをかなえてもらえないとなると、容赦がない。というわけで、ミューラーさんほどはっきり担当できる人できない人が分かれる入居者さんも珍しかった。実際、「ミューラーさんはおことわり」と明言する同僚は多かったのである。
 

朝のお世話(ミューラーさんの場合)


 朝7時。それぞれ担当が言い渡され、今日の注意事項を聞いたら、私たちは担当のお部屋へと向かう。
 ミューラーさんを担当する朝は、緊張する。お部屋に向かう途中、廊下を歩きながら、心の準備をするのだ。いつもの楽しい気分ではなく、自分自身をミューラーさんモードに切り替える必要がある。そうでないと、彼女の担当は務まらない。
 
 お部屋に入り、挨拶の後、よく眠れたかどうかお尋ねする。ミューラーさんは腰痛持ちで、朝は特に痛いとおっしゃる。右手をそうっと引いてから、背中に手を添えて起こしてさしあげるのだが、どんなに注意深くやってもほぼ毎回「痛い!腰が痛い!」と絶叫なさる(これは夜寝かせてさしあげる時も同様)。
 ベッドに座らせる姿勢をとると、歩行器を使ってまず立ち上がり、ゆっくり向きを変えてもらって車椅子に腰かける。私が添える手にちょっとでも力が入ると、もっとゆっくり!と注意された。かといって手を添えていないと危なっかしい。その加減がいつも難しいのだが、ほかの入居者さんはそれでも大目に見てくださる。多少は手を出しすぎても黙っていてくれるのに、ミューラーさんの場合、すべてに口を出し、かつ厳しく批判する。なのに、うまくできた時は褒めてくれない。

 だいたい、よく感謝し、よく褒めてくださる入居者さんは、私たち職員の間でも人気がある。気持ちよくお世話ができるからだ。
 ミューラーさんはその点をまったくわかっておらず、ずいぶん損をしていたと思う。(第二話に続く)

 おことわり。本文に出てくる人物名は架空のものです。プライバシー保護のため、内容も部分的にフィクションを加えてあります。
 


神奈川県→イタリア→英国スコットランド→スイス。引っ越し回数30回以上、転職も30回以上(バイトを含む)。イタリア語を学んだ後、日本語教師、ライター、介護ヘルパー。趣味は読むこと書くこと、ウォーキング、ヨガ、旅行、折り紙、ピッコロ。現在スイスのバーゼル近郊に長女と2人暮らし。