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スイスで介護ヘルパー!その11「ドイツ語が聞き取れなかった私とアッカーマンさん(後編)」#入居者さんの思い出

(前編からの続き)


入居者さんたちは、話したがっている


 入社早々、このことに気づいた私は、積極的に入居者さんたちと会話を持とうと努めていた。私は辛抱強くお話を聞きますよとアピールし、まずはわかってもらうのだ。そうすればきっと、良い話し相手としていつも私を探し、頼ってきてくれるだろう。そういう魂胆だった。

 今までの人生経験から私は、お年寄りの方々が概して「話したがっている」ということを知っていた。そこをうまく利用して、(同僚たちの輪にはなかなか入れないけれども)入居者さんたちの心に入っていこうと考えたのだ。

 いや実際、私は日本語でも話すのがあまり得意ではない。電話など、相手のペースに巻き込まれると肝心の要件を忘れてしまうので、箇条書きメモを用意するほど。話すよりも聞くほうが多い(家ではもうちょっとしゃべるけど)。話を聞くのは好きなのだ。
 ということで、私がアッカーマンさんに注目したのは、当然の結果だったといえる。
 

コロコロと変わるテーマ


 午後のミーティングが終わり、手が空いていたら、私はいつもアッカーマンさんの部屋を覗いた。時には、食堂でひとりポツンと残っていることもあった(誰も連れていってくれなかったのだ)。
 私は椅子を持ってきて、となりに座る。と、挨拶もそこそこに、アッカーマンさんは途端に目を輝かせ、口を開くのだった。

 そして私はドイツ語、特に聞き取りが苦手だったから、アッカーマンさんの言っていることがほとんどわからなかった。アッカーマンさんはご高齢のわりに早口だったが、それだけが理由ではない。どうやら話題は、次から次へと切り替わっているようなのだ。ついさっきまで天気の話だったのに、今はなぜか玉ねぎと言っている。イタリアの話かと思ったら、今度は学生がどうたらこうたら。
 そう、テーマはかろうじてわかるのだが、具体的な内容が聞き取れない。とにかくアッカーマンさんの目を見て話を聞き、まるでわかったかのようにうなずき、時には感心したふりをしたり、彼女の笑いに合わせて笑ったりしていた。

 ありがたいことに、アッカーマンさんは私の反応にほとんど興味を示さない。少なくとも判断を下さない。ただそばにいて、うなずいてほしいらしい。私も我慢強いので、ひたすら付き合った。

 そんな私の姿を見て、話に入ってきたり、はたまた仕事を言いつけてくる同僚はいなかった。私たちはいつも思う存分、2人きりでの会話を楽しむ(?)ことが許されていた。おそらく、イクヨが面倒な仕事を引き受けてくれて助かった、ぐらいに思っていたのだと思う。何も知らないイクヨ、アッカーマンさんにつかまっちゃってかわいそう、なんて言われていたかもしれない。

 いやいや、かわいそうどころか、私はこれでも手応えを感じていたのだ。アッカーマンさんがいくつかくり返すフレーズがあり、そういう決まり文句は聞き取れた。そのひとつが、「困ったことがあったら、いつでも私に言いなさいね」。私は笑顔でダンケと答えていた。
 

手放しで褒めてくださるアッカーマンさん


 やがてアッカーマンさんは、私がレクレーションの担当か何かだと理解したようだった。私が実際のお世話はしないのに(まだ新しかったから、担当が回ってこなかっただけ)、いつも話し相手になってくれる、というのが原因だったらしい。
 それで、私がナースコールを受けてアッカーマンさんの部屋へ行き、何かするたび「あなたは、そんなことしなくていいのよ」と言うようになってしまった。これは誤解されているな、と気づいた。説明しても、なかなかわかってもらえなかった。
 
 しかしほどなく、私も実際にお世話を担当するようになった。ようやく、私も介護スタッフだと認めてもらえるようになったのだ。前述のとおり、アッカーマンさんは必ず2人組で対応する。

 すると今度は、「彼女、いいわよね~。ここでいちばんいい子。本当に優しいの!」と、同僚の前で私のことを大絶賛するようになってしまったのだ。
 これは、どうしよう。嬉しいけど、いやなんとも対応に困る。……と困惑していたのは私だけで、同僚は誰も気分を害したりしなかった。表情も変えず、「そうよね~いい子よね~」などと言っている。本音は、「このアッカーマンさんに耐えられるんだもの、そりゃいい子でしょうよ」、といったところなのだろう。だから私も微笑むだけで、特に反応しなくていいと悟ったのだった。

 こうして私は、アッカーマンさんのお気に入りとなった。廊下ですれ違ったり、食堂で見かけると、投げキッスしてくる。「いい子ね~、あなたは本当に優しいわね~」と褒めちぎってくる。いつまでたっても名前は憶えてもらえなかったが、私を見るとぱっと表情が明るくなる。

 あれ、認知症って、人を認識できなくなるんじゃなかったの?と思ったが、アッカーマンさんの私に関する認識は目を見張るものがあった。何やら、足りなかったパズルのピースに私がピッタリはまった、とでもいうべき認識ぶりだった。アッカーマンさんは、こんなにも話し相手を渇望していたのだ。
 

2人で眺めた旅の思い出


 仕事を始めたばかりの頃というのは、何をどうしていいのやらわからず、時間を持て余すということがよくある。私もその後、「手が空いたらすべきこと」がどんどんわかってきて、それほどヒマではなくなっていった。
 それでも、ほんのわずかな時間を見つけて、私はアッカーマンさんの訪問を続けた。

 お部屋には本棚があり、小説のほかに大量のアルバムがあった。ワインレッドの皮のカバーがかけられた、ずっしり重たいアルバムである。見せてもらうと、若い頃に行ったパリ旅行だの、ヴェネチア旅行だの、アッカーマンさんのいろんな思い出がそこには詰まっていた。昔の、色あせた厚紙に糊で貼られたセピア色の写真たちを、私たちは一緒に眺めた。電車の切符や、美術館の入場券もあった。アイスクリームがおいしかった、なんてコメントもペンで書き込んであった。これは従妹、これは姪っ子、なんて説明もしてくれた。

 アッカーマンさんは、生涯独身だったらしい。訪ねてくる家族親戚はほとんどおらず(私がいない間に来ていたかもしれないが)、友人が時折来るだけだったのだ。

 私が聞き取れた、数少ない発言のひとつが「私はずっとひとりだったから・・・」。こんなに社交的で、話し好きな女性が未婚だったとは、人生とはわからないものだ。アッカーマンさんがお一人様人生に満足し、充実した生活を送ってきたというようには、ちょっと見えなかった。
 

そして私のパズルのピースが欠けた

 アッカーマンさんは、コロナで亡くなった。

 まだクラスターが発生する前、アッカーマンさんのお部屋に行ったところ、いつものおしゃべりがなく、息苦しそうにしている。これはおかしい、とすでに私は気づいていた。その後のテストで、陽性が判明。


 「今度の週末、一緒に街へ行きましょうね。カフェに入って、お茶を飲みましょうね」と、何度もさそってくれたアッカーマンさん。実現することはもちろんなかったが、お気持ちだけはありがたく受け取っておいた。
 
 自分の足で歩けるアッカーマンさんと、ドイツ語がちゃんと聞き取れる私。そんな2人が、もしも一緒に街に出かけて、カフェに入ったら。

 それはもう、想像の世界でしかない。
 
* * *

おことわり。本文に出てくる人物名は架空のものです。プライバシー保護のため、内容も部分的にフィクションを加えてあります。
 
 


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