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スイスで介護ヘルパー!その12「鬼ババア⁉いや、そこまでは!ミューラーさん(第三話)」#入居者さんの思い出

(第二話からの続き)



 介護とプライド


 ミューラーさんの登場以来、私はこの仕事とプライドについてよくよく考えるようになった。

 介護職はサービス業であり、接客の部分が圧倒的に大きい。排泄物や吐瀉物の処理も含めると、ある意味、究極の「奉仕」である。入居者さんのお世話をする際、時には自分のプライドを捨てないと務まらないことがある。ミューラーさんは特に、注文が多く要求も高かったので、それにはいはいと最後まで従っていられる人は限られていた。

 中にはうまく笑顔で切り抜けるスイス人もいるにはいた。が、「お客様は神様」の国から来た私など、基本的には外国人が多かった。スイス人は基本的に、プライドを捨ててまで他人に仕えようとは思っていないからである。
 
 何を言われても気にせず、結局やりたいようにやる人もいた。たとえば同僚のベルタは、ミューラーさんのペースに合わせることなく「はい、座って!はい、次は歯みがき!」などと号令をかけていた。私はたまたまその場に居合わせたのだが、ミューラーさんは「そんなに急かさないで!軍隊みたい」と機嫌を損ねていたのだ。
 ああ、やっぱり。私はこれからも、私のやり方でいこうと思った。

 いや、別に全員に気に入られようなんて、思わなくて良い。人にはそれぞれ相性というものがある。
 しかし介護ヘルパーは接客業だと思っている私は、入居者のみなさまにできるだけ気持ちよく過ごしていただこうと、いつも心を砕いている。だって、家族と離れてひとり、知らないところに来て暮らしているのだ。お年寄りなら、新しい環境に慣れるのがまず大変だろう。だから、せめて優しくしてあげたい。

 これを読んでいるみなさまは、「なに当たり前のこと言ってるんだ」と思われるかもしれない。しかし残念ながら、こういう当たり前のこと、つまり介護コースで教わった基本を忘れて勤務にあたっている人もいる。いや、私だって正直なところ、教わったことをそんなに覚えているわけではない。それでも私の頭に刷り込まれた「お客様はいつも正しい」という信条は、どうやっても消せない。 
 上のポジションの、看護士レベルの人たちは医療的なケアや事務処理も多いから、細かいところまで手が回らない、それはわかる。しかし下っ端の私たちヘルパーは、下っ端だからこそ、細やかな気遣いに徹すべきだと思うのだ。

 とはいえ、そんなことは言えない。ここNoteに書いているだけで、会議でも休憩でも、口にしたことがない。やはり日本人は周囲の反応を恐れて、自分の意見をはっきり言えないのですね。仮に私がリーダーになったなら言うかもしれないが、今の状況ではとてもとても。ただ黙々と、自分の仕事を自分のやり方でこなすだけである。

アミーナの誤解


  ただし。もちろん批判、摩擦、圧力はある。

 例えば、あるとき職業訓練を終えたばかりの新人さん、アミーナが入社してきた。自分の娘ほどに若いが、所定の学業も修めて看護士の資格を持っているので、私たちの上司であり、日によってはリーダーにもなる。 

 まだ始めて間もないアミーナが、ある夜。ミューラーさんのお世話を終えて戻ってきた私に、ものすごい剣幕で言った「イクヨ、一体どれだけ時間かけてんの!一人に1時間なんて長すぎるよ(注:実際は40分)!あなたがミューラーさんのところにいる間、エリーザ(同僚)は3人もやったんだよ!」。

 アミーナは初日、「スシ大好き~!日本に行きたいの」とか言ってたから、仲良くなれると思っていたのに。あまりにショックで、何も言い返せなかった。いや、ミューラーさんは特別なのとか何とか言ったと思うが、彼女の声にかき消された。

 その夜、アミーナは最後に「エリーザ、今日はいっぱい仕事をこなしてくれたね」とねぎらっていた。エリーザだってミューラーさん担当組だから、事情はよく知っているはずなのに。私を弁護してはくれなかった。アミーナの言葉に、満足そうにうなづいていただけ。

 このアミーナは、結局だいぶ後になって私とは和解した。ミューラーさんはほかと違うこと、そして私は私なりにちゃんとやっていることを理解してくれたから(ただ彼女は仕事自体にやる気がなくて、早々に辞めてしまったが!)。

 時々こんな風に、個々の入居者さん情報を充分把握しないまま私たちヘルパーに命令してくる上司もいる。まあ、そのうちわかってくれるので、気にしなくて良い。こんな時、長年ここに勤務している強みを感じる(私は勤続5年ちょっとだが、5年は長いのだ)。
 

セシルのお説教

 しかしそんな新人さんとは異なり、ベテランであるが故の指示もあった。例えば、セシル。人手不足の時期に、初めから3か月だけの契約で来ていた看護士だ。

 彼女の口ぐせは、「この仕事を30年やってきたんだから」。確かに堂々としていて、介護のことは何でもわかっているようだったし、どんな入居者さんでもお任せください、といった雰囲気だった。

 そのセシルが言った「イクヨ、そんなにミューラーさんの言うこといちいち聞かなくていいの。ただでさえ、面倒なんだから。ミューラーさんは担当したくないって言う人が、こんなにいるのは異常。ほかの人がますますやりにくくなるから、ここではあなたの国のやり方でやらないで!」。
 この人にわかってもらうのは至難の業だ。けれど私は反論を試みた「でもここに来ている方たちは、大金を払って入居しているわけでしょ?私たちは、それに見合うサービスを提供すべきだと思う」。
 「入居費がいくらだとか、そんなの関係ないの」セシルは言った。「とにかく、あちらのペースに合わせる必要はない。私は、この仕事を30年やってきたんだから。こういうタイプは、ペースに巻き込まれたらダメ。こっちに合わせてもらうしかないの!」。

 確かに、セシルがミューラーさんを担当するときは、自分のペースでミューラーさんを動かしていた。自分の思った通りの順番とやり方で通していた。ミューラーさんは何も言えなかったらしい。
 それで、どうなったか。ミューラーさんはセシルを「あの子はよこさないで!」と言うに至り、担当組から外された。結局私たちが残っただけである。
 

今夜のご担当は・・・


 やがて、ミューラーさんの新しいルールができた。通常はその日の夜に誰が誰を担当するかを4時ごろに決めるのだが、ミューラーさんだけは担当者を早めに決め、ご本人にお伝えするということになったのだ。ミューラーさんも早く知りたいし、気に入らない場合は変更してほしいというわけ。早番は当日朝の7時ごろ、つまりご本人はまだ眠ってらっしゃるときに決まるから仕方ないが、遅番に関しては何とかなると考えたらしい。(第四話に続く)


 おことわり。本文に出てくる人物名は架空のものです。プライバシー保護のため、内容も部分的にフィクションを加えてあります。

 

神奈川県→イタリア→英国スコットランド→スイス。引っ越し回数30回以上、転職も30回以上(バイトを含む)。イタリア語を学んだ後、日本語教師、ライター、介護ヘルパー。趣味は読むこと書くこと、ウォーキング、ヨガ、旅行、折り紙、ピッコロ。現在スイスのバーゼル近郊に長女と2人暮らし。