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スイスで介護ヘルパー!その2「バトルはあれど、憎めなかったイェガーさん(後編)」#入居者さんの思い出

(前編からのつづき)
 



冗談好きだったイェガーさん

 2つめは、「あなたの髪と、わたしの髪で、バーゼル市」というのだ。バーゼル市の紋章が白地に黒い杖というデザインなのだが、イェガーさんはそれをなぜか髪の毛の色で連想したのである。私のみならず、タイ人の同僚もこのジョークの対象となった。あまりに何度も言われたので、「あなたの髪…」を聞いただけで笑ってしまう。すると、「あ、これもう聞いた?」と、真顔で言うのだった。

バーゼル市の紋章

 あとのひとつが、「ブシじゃないんだから」。ブシは武士ではなく、バーゼル方言で、赤ちゃんという意味である。

 イェガーさんは就寝が遅い方だった。自分で何でもできるならまだしも、イェガーさんのように全介助が必要な人がいつまでも起きていると私たちの仕事が片付かないので、ついつい本人の希望に反してさっさとベッドに送りたくなってしまう。
 というわけで、共同スペースでテレビを見ているイェガーさんをなだめすかし、8時ごろ部屋に連れていこうとすると、「ブシじゃないんだから」とよく言われた。赤ちゃんじゃあるまいし、なんでこんなに早く寝ないといけないの、という彼女なりの抗議だったのだ。

幼なじみのご主人と


  入居後も、ご主人は毎日やってきて一緒に食事し、二人の時間を過ごしていた。骨太のイェガーさんに比べ、ご主人は華奢な体つき。何も知らない人は、あの二人が夫婦だと決して思わないだろう。それでもイェガーさんはいつもご主人を探していたし、私たちがトイレの時間ですよといって迎えに行くと、まだここにいたいと駄々をこねた。

 聞けば、イェガーさんとご主人はご近所さんだったそうな。お向いの家に住んでいたご主人とは、小学生からの幼なじみだという。のちに結婚して、子どもは3人。今も毎週オンラインで家族会議をしている。
 女らしい部分がほとんどないのに、女の幸せはちゃんと味わってきたのだと、バツイチの私は感じ入ったものである。

やがて体で抗議するように…


 清拭(入居者の体を拭いてきれいにすること)をすると、「もういい!」と吐き捨てるように言っていた。特に性器や乳房の下は極端に嫌がった。こびりついた便を拭いていると「やめて!」と言われた。オムツ交換のためにベッドで体を横転させると、げんこつで叩いたり、手にかみついたりするようになった。私たちも徐々に面倒になり、イェガーさんのお世話はどんどん簡略化されていった。

 けれども。イェガーさんは私に対し、決して攻撃的にはならなかった。ほかの同僚たちと違って、私は決して彼女を乱暴に扱わなかったから。いつもイェガーさんの反応を見ながらお世話し、特に足はそうっと動かすように注意を払っていたから。

 力まかせに体を動かされたり、痛む足を強く持ち上げられたりすれば、誰だって「痛い!」と声をあげるのは当然だろう。しかし同僚たちの多くは「そうでしょうね、痛いでしょうね、でもこうしないといけないの!」と正当化し、手を止めない。「あなたは重いんだから、しょうがないの!」と面と向かって言う人さえいる。こういう場面で謝るのは、私を含めたごく少数派なのだ。

 バトルが展開された後でも、湯たんぽを用意してあげれば機嫌を直し、大事そうに胸に抱えて寝入るイェガーさんだった。
 お世話を終えて部屋を出ようとすると、いつも「おやすみなさい、時間があったらね!」と言ってくれた。(おわり)


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 おことわり。本文に出てくる人物名は架空のものです。プライバシー保護のため、内容も部分的にフィクションを加えてあります。

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