note初投稿
平井貴大です。
山口大学医学部医学科3年生で、株式会社Lognite代表取締役並びに株式会社UBE COL代表取締役を務めています。
医療や地域経済・振興、若者や学生などをテーマに情報発信するのを目的にnoteでの投稿を始めます。第1回から第3回の投稿は自己紹介として、これまでの経歴などについて、振り返ります。
第1回目は、医学部入学を目指し、勤めていた組織から退職するのに至った経緯について投稿します。
ここでの投稿活動をきっかけに、思いを共有できる皆様と事業や活動をともにできるようになりましたら幸いです。どうぞ宜しくお願い致します。
経歴について
2016年4月から5年間、NHKで記者として勤務していました。警察や裁判所などの司法担当から、市役所や県庁、議会などの市政・県政担当に加えて、地域経済や新型コロナウイルスなど幅広いテーマで取材にあたりました。
おととし(2021年)3月末で退職し、山口大学医学部に入学しました。現在、心身医学や産業医学を中心に学びながら在学しています。
医学部入学まで
医学部入学を目指し、NHKを退職したのには2つの理由があります。
入学を目指した背景にあるのは、心身医学や産業医学の領域で医師として働きたいという志。退職を決断したの背景にあったのは、組織に属した記者として働き続けることへの個人的な不安や不満です。
就職活動で報道機関を志望したのは、働く人が抱えるメンタルヘルスの問題を社会課題として報じたいという動機からでした。私の家族の周りで、うつ病に罹患した人が自殺したのがきっかけです。当事者や遺族の苦しみや悲しみに及ぶものではありませんが、私の家族もまた関係者の1人として悩み苦しむ日々を過ごしました。この経験からメンタルヘルスに関わる仕事への関心を強めました。ただ学生だった私は、患者ひとりひとりに向き合う医療という業界からではなく、若い世代のメンタルヘルス課題の根幹にある学校でのいじめや社会人の働き方などに訴えかけることができるマスコミ業界を志望しました。
医師免許取得を目指すまでの経緯
就職活動を経て、NHKに入局しました。配属先は長崎県。司法担当だった私は、長崎に原爆が投下された際、国が定める地域の外にいたとして被爆者と認められていない「被曝体験者」が国や長崎市などに訴えを起こした裁判の取材にあたりました。2007年から被爆者として認めるよう訴えを起こしたこの裁判。2017年には最高裁判所が上告を退け、ほぼ全員の敗訴が確定しました。
敗訴が確定し、長崎に戻った私は原告団長を務めた女性を訪れました。彼女は「裁判に負けたのに対しては忸怩たる思いがある。訴えを続ける」とした上で、私に伝えたいことがあるとして、「裁判に勝って被爆者として認められたとしても、原爆が私にもたらした痛みや悲しみを忘れられる日々はきっと来ない。日常のふとした瞬間にあの日の光景やその後の人生で味わった苦しみが胸に込み上げてくる」と話してくれました。
この瞬間、私は社会に対して変容を求め訴えかける報道という立場では、悲しみや苦しみを抱える人の心を必ずしも緩和できないことに改めて気付かされました。これをきっかけにメンタルヘルス課題の根幹にある社会課題の解決に取り組みつつ、ひとりひとりの心と向き合うことができる人材という目標に対して、まず医師免許の取得から始めることにしました。
組織人としての不安
もうひとつ退職を決断した背景にあったのは、30歳になるのを目前に生じてきた不安や不満でした。インターネット普及による新聞・テレビ離れが指摘される中、周囲では業界存続の厳しさについて議論しない日はありませんでした。こうした環境で感じていたのは、やりがいを持って仕事を続けられるかどうかといった不安や、「斜陽だ」とか「辞められるなら辞めたい」といいつつ具体的な取り組みが起こらないことへの不満でした。
また記者という仕事は、資格があるわけでもなければ、視覚的に捉えられる技術を要するわけでもありません。転職など新しい一歩を踏み出すには、30歳を迎える前のいま、決断しなければならないという思いもありました。
こうして私は5年間勤めたNHKを退職し、医学部受験に取り組みました。そして去年(2022年)、山口大学へ合格・入学し、現在に至ります。
次回は、山口県宇部市に移住し、起業するまでに至った経緯などについて、投稿します。地方都市の現状や学生による起業の一例としてご紹介させていただきます。引き続きどうぞ宜しくお願いします。
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