先生とくらしを見つめるコラム②いい子って?
このコラムは、「先生が肩肘はらず・自分らしく・多少不器用でも楽しく暮らせる職業であってほしい」という願いで書き始めました。
先生に何か教えるとか、先生に何か与える、というよりも
「先生がほっと一息つける、自分らしい瞬間を少しでも取り戻せる」ようなきっかけをつくるためのコラムです。
大人の「いい」っていろいろ
ここのところ「いい」という言葉に時々「ムムム…」と思うときがあります。
人が物事を「いい」と言うまでには
①自分がそのものを見たり感じたりする
②自分の美学に合わせて判断し「いい」「よくない」を決める
③実際に行動を起こしたり、発言したりする
という流れがあります。
だから当然、一人一人によって「いい」の判断の仕方ってある程度違ってくる。
それなのに、ある一定のところに「いい」というものがあって、それに対してよくないものがあるようになっている気がして。
本当は、ある一定の基準とか倫理とか規範意識の中であれば、「いい」は多様なんですよね。
大人が見る子どもの「いい」もいろいろ
だから、大人からみて
「あの子いい子だよね」
という言葉、前置きとして
(私のこれまで生きてきた価値観とか、大事にしているものの見方の範囲内において)あの子いい子だよね
ということになります(うわー、いわたつってめんどくさい男だなあ、と思った方、その通りですw)
だからといって、決して「いい子」という言葉が悪いわけではないのですが、
いい子を測る定規は無限にある、と言うことを頭のどこかに持っていてほしいと思うんです。
子どもがもつ”ものさし”は、大人のものさしに近づいてくる
人は、生まれながらにして天才だと思っています。でも、いろんな影響で、自分の才能を伸ばせたり、自分の才能にブロックをかけたりしていきます。
価値観も、本来はフラットだったと仮定すると、子どもがお互いのことを見る目線は、大人のものさしをそのまま映したものだったりします。
子どもって、
〇〇しちゃダメなんだよ
〇〇していいんだよ
って会話をよくします。よく聞いてみると
だって先生がいいって言ってたもん
このあたりが結論だったりします。
大人のものさしを借りつつ、自分のものさしを作っていく
でも僕は
だって〇〇がいいって言っていた
という価値基準の柱から
自分がどうしたいの?
自分のこれまでの経験からどう思うの?
というところまで、少しずつ価値の柱をずらしてあげられたい、という思いがあります。
こうやって書いている自分が1番、価値の柱を持てていないけど
これまで偉そうに書きましたが、よくも悪くも、僕自身が価値の柱が多様にあるので、すぐに「いい」とは言えないところがあります。
でもだからこそ、子どものいろんな「いい」に出会えるのかな?とも思ったり。
そんなブレブレな自分も愛して、そんな自分だからこそできるワザも大切にしていきたいです(*´∀`*)
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