見出し画像

パラレル教室運営日記13 全力で遊ぶ子どもたちの裏側

自分を見るためには・子どもを見るためには、

「じっくり時間をとる」「考えて意味を捉える」

そのための時間と言葉が必要だと考えています。

でもそんな時間が取れなくて、少しの焦りと、無理だという諦めが産まれかけていました。

夏休みが始まって、何かが変わりました

自分の中から言葉を出そうとしても言葉が出てこないということ。

勤務時間=子どもがいる時間で、自分の中と向き合う時間がなくなっている気がしています。

そのため、自分の中から言葉を引き出す時間が取れなくなり、結果的にはnoteを書くための頭が出てこなくなりました。

そんなわけで、これまで時間を使っていた、SNSのアプリをスッマートフォンから全て削除しました。

PCではみることができます。スマートフォンからはみられません。

少しでも、自分の心や自分の言葉と向き合いたいと思います。


でも、子どものことはじっくりと観察ができる

学童クラブや、放課後子ども教室は

「教えるー教えられる」という関係性を超えた、いわば「ナナメの関係」だと僕は思っています。

カタリバさんの取り組みは、まさに「ナナメの関係」


こんなナナメの関係に見守られている子どもたちです。こんなことしたら先生に言われちゃう・・・みたいなことが薄まっているため、

スキとスキ、夢中と夢中、ワタシとワタシ

がぶつかり合います。

時に激しく、時にじっくりと、時に爆発的に・・・

このことは学校を否定しているわけではありませんよ。圧倒的に、役割が違う、ということなのです。

スクリーンショット 2020-08-14 15.19.02

↑ホームページより抜粋

このあたりの、8・9あたりは、学校の先生には意外とカバーできないところかもしれませんね。

子どもたちは、遊びの中で本気でぶつかることがたくさんあります。
子どもたちは、遊びの中で自分たちの力を試します。
子どもたちは、遊びの中で友達との関係を作ります。
子どもたちは、大人を安全基地にして知らない人と関わります。
子どもたちは、本気だからこそ悲しくなります。
子どもたちは、遊びに本気だからこそ怒ります。


子どもたちの遊びって本当に様々。

個人的にはこんな遊びを大切に設置したいと考えています。

・何度も繰り返し遊べそうな遊び。
・自分で発展させられそうな遊び。
・遊びを通して他の人と関われそうな遊び。


「子どもたちは」と語るとき

「子どもたちは」と語るとき、わたしの頭の中には「〇〇くん」「〇〇ちゃん」「〇〇さん」が浮かんでいます。

一般的なこども像、というより、具体と抽象をちょっとずつ行き来をしているように語ります。

教室の子どもの話をするときなども、子どもたちは、と語りながら

〇〇ちゃんはあんなこと言っていたな
〇〇くんはあんな姿を見せてくれていたな

とイメージしています。


「子どもをみる」とき

だから、子どもをみるときも

なんとなく姿をみているのではなく、

・あの子とあの子の関係性
・あの子から始まる関係性
・あの子を中心にしたみんなの関係性

と、1人を中心に周りとの関係性でみることを、「子どもをみる」だと考えています。

そうすると、子どもをみるときに

・表情
・しぐさ
・微妙な動き
・発言

1つ1つの事実を組み合わせて、解釈をしていくことが、最終的な「子どもを見る」に繋がっていくんじゃないでしょうか?

この記事が参加している募集

オープン社内報

「もっと読みたい」「役に立った」と思える記事を書き続けます!これからも一緒に目標高く、ゆるゆると頑張っていただける方は、ぜひサポートをお願いします!