ショートストーリー「電話ボックス」

昼から降り始めた雨が勢いを増している。近ごろ雨の日が多く、ひと雨降るごとに季節を秋に押し進めているようだ。
男は古い木造アパートの1階にある自室でぼんやりとしていた。ワンルームの部屋には小さな座卓とテレビ、必要最低限の家電が置かれている。白いレジ袋に入れられた弁当のごみが何袋もあり、狭い部屋をより狭くしている。空のペットボトルや缶も転がっている。布団は敷きっぱなし。起きているときはそこに座り、夜はそこに寝る。いまは昼過ぎだが、男は布団に寝ころんでいた。天井にはなぜついたのかわからない茶色のシミがいくつも広がっている。
隣の年老いた男の部屋から演歌がきこえてくる。ごみが詰まっているであろう雨どいからあふれ落ちる水がばたばたと何かを叩いている。いつものことなのだが、気にし始めるとたまらなく耳障りで男はため息をついた。

しばらく天井を見つめたあと、男はそろそろ電話しないとなあ、と思い起き上がった。目がスマホを探す。座卓、布団、その周辺を。
しかしあるはずのスマホがない。男は眉をしかめた。それまで緩慢だった動作がほんの少し速くなる。男は立ち上がって部屋を見回した。いくつかのレジ袋を足でどけてみたがない。脱ぎっぱなしのカーゴパンツのポケットをまさぐる。一度も使ったことのないポケットにも手を突っ込むが、やはりスマホはなかった。
どこかに置いてきたのか、それともどこかで落としてしまったのか。思い返してみても記憶は探しているものにまったくたどりつかない。スマホがなかったら電話できない。それに求人サイトを見られなくなるのがとても困る。もし見つからなかったら新しくスマホを買わないといけないが、いまの自分にはとても高価で買える気がしない。男は絶望的な気分になった。

しかし、何があろうと今日は電話しないといけない。自分は駄目な人間だが、それだけは長い間欠かさずやってきたのだから。家に固定電話を引いていないので、公衆電話を使うしかない。手にしていたカーゴパンツを穿き、財布をポケットに入れたところで男の動きが止まった。
そういえば公衆電話はどこにあるのだろう。駅にはありそうだが、自宅から歩いて30分もかかる。土砂降りの雨のなかをそこまで歩きたくない。たしかうちの近くで見かけたはずだ。男は目を閉じて近所の景色を思い浮かべた。
男の住みかに似たアパートや、やたらと敷地が広い戸建て住宅や、長年誰も手入れしていないために庭の草木に飲み込まれそうになっている小さな住宅などをたどっていくと、小さな公園の一角に古びた電話ボックスが現れた。そこなら5分もかからない。男は家を出て公園に向かった。

雨がかなり強く降っていて、歩き始めるとあっという間にズボンの裾が濡れてしまった。公園の角に申し訳なさそうに佇んでいる電話ボックスのなかは空気がこもっていて蒸し暑く感じられた。
男はグレーの箱を前にして少し戸惑った。公衆電話を使うのはいつ以来だろう。もしかしたら20年くらい使っていないのではないか。通話料金がどのくらいかかるのかもわからない。受話器を取って10円硬貨を3枚入れ、絶対に忘れることのない番号を押した。
何度か呼出音が鳴った後、聞き慣れた声がした。男の母親だった。
「はい、もしもし」
「ああ、俺だよ、俺」
「俺って誰?」
「誰って雄一だよ」
「あら、雄一?」
電話機のディスプレイに「お話できる時間は0・・・1・・・2・・・3」と書かれていて、カーソルが0と1の間に表示されていた。30円でこれだけしか話せないのか。雄一は慌てて財布から100円玉を出し電話機に入れた。そのせいで会話に妙な間が空いた。
「もしもし?雄一?」
「ごめん、公衆電話からかけてるんだ。スマホがなくなっちゃってさ」
「あらやだ。どうせあんたのことだから、脱ぎっぱなしにした服の下にでも隠れてるんじゃないの?」
「いや、見たけどないんだって」
「そーお?もう一回ちゃんと見てみなさいよ」
「わかったわかった。帰ったら見てみる」
「それでどうなの最近は。相変わらず仕事忙しいの?」
「うん、そうだね」
男は居心地の悪さを感じて身じろぎした。
「体壊したら元も子もないんだから、休めるときに休みなさいよ」
「わかってるよ。ありがとう」
「先の話だけど、やっぱりお正月は帰ってこれないの?」
「帰りたいけど忙しいし、飛行機のチケット取れるか分からないし」
そもそも、チケットを買う余裕なんてない。雄一は唇をかんだ。
「そうよね、お正月はチケット取るの大変よね」
「父さんの墓参りにもなかなか行けなくてごめん」
「いいのよ。こうして月命日に電話くれるだけでもお母さん嬉しいんだから。これからお墓に行ってくるけど、雄一からまた電話来たよってお父さんに報告できるし」
「それならいいんだけど」
1か月前と同じような会話をしたらもう話すことがなくなってしまった。ディスプレイを見たら、通話時間が残りわずかだった。
「じゃあ、電話切れそうだからまたね」
「あんた体に気をつけなさいよ」
「わかってるって。母さんもね」
「はいはい」
雄一は受話器を置いて、息を吐いた。やけに電話ボックスのなかが暑くて、額に汗がにじんでいた。

家に帰り、裾がぐっしょりと濡れたカーゴパンツを脱いで洗濯機に放り込む。タオルで肩を拭きながら布団の上に足を乗せると、固い感触がした。足元を見ると、昨日脱ぎ捨てたと思しき白いTシャツが丸まっている。シーツも白いので落ちていることに気づかなかった。足をどけてシャツを拾い上げると、散々探していたスマホがあった。軽い脱力感を覚えながら画面を見ると珍しく新着メールの通知が届いていて、開いてみたら母からだった。
『でんわみつかってよかったね からだきをつけてね』

「まったく…なんなんだよ…いい加減、漢字変換覚えろよ…」
雄一は片手で目を覆い、親指の先で目の端をそっと拭った。

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