自分で選択した方を自分で正解にする人生
今回は書けそうなお題を見つけたのでnote担当の私、中村が人生を振り返って書いてみようと思います。
18歳の選択
私が高校を卒業した2021年、まさにコロナの真っ只中。
もちろん行きたい専門学校を決めていた時期はそんな状況になるとも知らず
やっと自分のやりたい勉強だけに没頭できるんだ!と意気込んでいました。
しかし、専門学校に入ってみるとコロナの影響をもろに受け
授業は1ヶ月遅れの開始や始まってもリモート。
私は語学(英語を学びたかった)の専門学校へ入学したのですが
やっぱり直接先生から学ぶべきだよなあとモヤ①を抱えていました。
そして、授業をしていくうちにカリキュラムにあった
「社会人マナーメイク講座」という項目。
これに関してはきちんと授業内容を入学前に確認しなかった
私にも非があるのですが、正直な感想はなんだこれでした。
中学生の頃から、なんとなくぼんやりと私はスーツを着て毎日
会社に通うみたいなレールには乗らないだろうなと漠然とした
自分へのイメージと将来図が頭の中にあったのですが
ここでついに社会への適合に対して初めて真正面から疑問を
持つようになりました。
いつ終わるかわからないコロナ禍と
不要だと思っている授業の多さ、将来への不安
そんなものが積み重なりに積み重なって爆発してしまいました。
そんな私はわかりやすい躁鬱状態だったと思います。
「もうやることはないし私は社会に適合できないし死のう」
という感情と
「私ならこの状況だっていくらでもやれる、やりようはある!」
という感情が行ったり来たり。
ひどい時は毎日この感情がコロコロとしていました。
そしてついに、躁状態の私は東京のとある会社で
リモートインターンを始めました。
インターンを始めてからはとにかく毎日が充実していて
楽しくて楽しくて仕方ありませんでした。
主にアパレルのSNSを担当していたのですが、面白かった。
全てが新鮮で関わる人みんな楽しそうに仕事をしていて
格好いいなと素直に思いました。
インターンを頑張れば頑張るほど、学校はサボりがちになって。
ついに担任の先生から「親御さんと一度学校へ来てください。」と
連絡が来てしまいました。
学校へ行く前に親には現状を説明し、辞めたいです。と伝えました。
なんて言われるか不安だったけれど、理解してくれて、好きなことを
やったらいいよと。ありがたかったです、この言葉に救われました。
そしてついに私の18歳の選択の日。
私は自分の口から「辞めます。」と伝えました。
すると、担任は「一度落ち着いて話をしよう」と
親を校長室へ案内して私は別室で説得タイムが始まりました。
話したこともないような先生たちが次から次へとやってきて
「辞めたら大変だよ」「騙されている」など言われました。
ですが私のなかでもう意思の変わる余地はなかったので
ひたすら「辞めます」の攻防戦。
ついに折れた先生たちは、退学届をくれました。
学校から出た時に感じた開放感と私の人生はこれから
どんな風になっていくんだろうというワクワクが溢れました。
不安は一切なく、前向きな風が流れていたと思います。
私は、安定よりワクワクが好きで追いかけずにはいられないんだ
とこの時実感しました。
19歳の選択
学校を辞め、しばらくは地元に残ってリモートワークを続けていました。
ですが、やっぱり私東京に行きたい。という気持ちが強くなり
「よし、上京しよう」と。
元々、東京には友達がいたのでせっせと足を運んでいたのですが
往復するのが大変だし、仕事もしやすくなるならいっそのこと
住んでしまえばいいのではという考えに至りました。
そうなったら立ちはだかるのは、お金の面での問題です。
SUUMOで物件を探すけれど、やっぱり圧倒的に高い。
(新潟での一人暮らし時代は家賃2.5万円でした。)
そんなこんなで悩んでいる時期に、2回ほど会った事のある
埼玉に住む同い年の写真家の女の子が私も上京したいんだよね〜と!
なら、一緒に住んじゃう?みたいな、親が聞いたら絶対に
辞めなさいというような状態で私たちはどんどん話を進めました。
結局なんだかんだその子との日々は楽しく、美しく、若く
かけがえのない日々になりました。
(今でもとっても仲良しです。)
上京して、2.3ヶ月たった頃ついに躁鬱が煩わしくなってきてしまったので
精神科へ行ってみるとお仕事は休んだ方がいいかもねと言われてしまいました。せっかく上京してきて、キラキラ楽しい東京ライフを送るはずだったのにという気持ちでした。
その頃は鬱の症状がひどく、眠れないせいで起きられなかったり
何に対しても意欲を毎日平等に振り分けることが難しく
フリーランスになるという決断をしました。
正直、こんな上京したての何者でもない私がフリーランスとして
やっていけるのか不安で仕方ありませんでしたが、やるしかなかったです。
周りの人に恵まれて、なんとかしばらく食いつなげたのはすごくいい経験になったと今思います。
フリーランスとしては、写真を撮ったりMVの作成をしたりSNSの運用をしたりと様々なことを経験しました。
元々趣味でやっていた写真を仕事にしてみて、決めたことが一つありました。それは、絶対に写真家にはならない。ということです。
好きで好きで好きな写真だからこそ、突き詰めすぎて嫌いになってしまう時が来るならもう写真は趣味に振り切ってしまおうと思いました。
20歳の決断
ついにキラキラの10代を終え、20歳に突入しました。
10代のブランドを失うことはとても怖かったし嫌でした。
そして、20歳になった夏。
ついに今の会社Hinomeに正社員として入社します。
人生で初めての正社員。毎日決まった時間にスーツを着て満員電車に乗り
決まった時間働く。そんなイメージを持っていて、あんなに嫌だった
正社員についになる時が来ました。
ですが、そんな私がなぜHinomeで社員になれたのか。
それには大きな理由があります。
まずは、知っている人しか会社にいなかったので私のことを良く理解して最善の働き方を提案してくださったということそしてまだ社員が少なかったということです。
この環境なら私も働きたい!と強く思いました。
スーツを着なくてもいい、働く場所も時間も自分で決められる。
そう思うと、正社員も悪くないなと思えました。
決めるとやめるについて
決めるのもやめるのも、私は全部私が決めたい!
私は私のこっちだという直感を100%信じているから。
今までの大きな決断をこうして振り返ると、正解しかない。
それは、すべての選択が最適解だったんじゃなくて
自分の力ですべて正解にしてきたからだと思っている。
そう自信を持って言える。
私の人生は私がすべて正解にしてきた、素晴らしいものにできる。
すべては選択した後どう動くかだと思う。
どんな状況に置かれても、好きなように咲けばいい。
一度枯れてもいい。枯れたって、今の時代ドライフラワー
として美しく生きていけるのだから。
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