「読む」ということ
「読む」にはいろいろとあり、「文章を読む」「本を読む」など目に見えるものを読むこと、「空気を読む」「間を読む」「行間を読む」「心を読む」など目に見えないものを読むなど、いろいろとある。
最近、多くの量の文章を読むことができていない。それは単に体力や気力の問題と思っていたが最近になってこれだけでは無いのではと思った。
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「空気を読む」この言葉は好きではない。それは自分自身が「空気を読んでいる」ことを自覚しているからかもしれない。笑顔の裏にある闇や靄のようなものを読んでしまうことがある。その読みが当たっているかどうかはわからないが、たぶん当たっている。私に対する負の感情のときもあるし、他の人や環境に対する感情のこともある。これは最悪の状況を回避できる防御だろう。誰かと比べたわけではないが、私はその感じ方が人よりも敏感なのだと思う。
見えないものは無理してまで読まなくてもいいと何度も自分に言い聞かせている。必要がないから目に見えない、それが進化の法則のはず。しかし心で感じるものは読み取るべきものなのだろうと思う。自分自身の感情は大きくないのに、人の負の感情が上書きされる感覚になる。
そんなときは穏やかでいられない。
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読むための器というのが人にはあるのではと思う。人の心を読みすぎるとそれだけで器がいっぱいになりそこから溢れてしまう。だから文章も本も読めないのは体力や気力のなさだけではなく器の許容量が超えているからだろう。
人の心など読めないほうが幸せなのかもしれない。
けれど、人の心を読まないことは本当に幸せなのだろうか。目に見えるものだけしか読まないことは本当の意味で生きていることになるのだろうか。人の弱さを感じその痛みを知ることは、同時に私の弱さを知ることでもある。
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noteを読むということ。世の中に出版されている本やエッセイを読むこととは異なる。それは良くも悪くも「つながり」があるからだろう。
同じ文章を、作者の名前を伏せた本で読むのとつながりのある作者とわかって読むのとではきっと感想は異なる。文章を読むということはそこに書かれた文字だけでなく作者の思いを感じるということであるが、「つながり」があるということは、それに加え「作者の顔」が見えるということ。それは実際に会ったことがあるとか顔を知っているとかそういうこととは関係ない。
作者の顔は「解像度」がものすごく高い。
それを良いと思うこともあれば、悪いと思うこともある。それは決して内容の問題ではない。たとえ幸せなほっこりする話であっても、その時々の自分の状況によって変わってしまう。嫉妬というのはこういうところから発生するのかもしれない。
noteはクリエイターが集まって創る街。時代の流れに伴ってそのかたちが少しずつ変化していっている。私自身noteを始めて約3年の年月が経つが、最初に始めた当初と比較すると、人とのつながりや影響、自分自身の書くこと読むことへの思いは大きく変わったと思う。noteそのものもサークル機能の誕生や、トップダウンだけではなく、それぞれの「個」が影響を与え合っている。その変化が正解なのかどうかはわからないし必ずしもその変化の波に乗る必要はない。ただ変化している現実に目を背けず、ここちよくいられればいい。
私はいいとこどりをしながら自分にあった使い方を探していきたい。そんなふうに思っている。
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今は「読むこと」に関して少しだけ鈍感でありたい。