新しい普遍性の前景化(?) メディアアーティスト落合陽一 クリエイターの為の批評コラム

前回はこちら。

直接作品を鑑賞してもいないのに論じるのは僕の主義を少々逸脱するのだが、WIREDの「テクノロジーとアートの『断絶』を埋めるには:落合陽一×八谷和彦×岩渕貞哉、MATトークレポート」を読んですこし思いついたことがあるので。

気になったのは以下の部分。



(以下引用)
「テクノロジーとアートをかけ合わせた人たちを、美術史のなかに組み込む上で扱い方に困ることはありませんか?(八谷和彦)」

「落合さんが一番困ります(笑)…落合さんは研究開発と作品制作が一体化しているタイプです。普通のアーティストなら『テクノロジーを使って何ができるか、新しいヴィジョンをいかに見せるか』を提供することが多いなかで、落合さんはテクノロジー自体が作品になっている(岩渕貞哉)」

「クアラルンプールで…『テクノロジーとアートを文脈として接続することを作家は考えずともいい。それは批評家の問題では?』と…言われました。つまり、日本には批評できる人がいないが、メディアアーティストはたくさんいる状態です。…メディア美術とメディア技術、もしくは美術史を貫通して他人に物事を伝えられるような、キュレーターの育成が足りていないんですね(落合陽一)」

「論評や批評は明らかに少ないですね(八谷)」
(引用ココマデ)



相変わらず美術批評は隙が大きいな、という個人的感想はともかく、落合の作品群や試みの方向性からひとつのコンセプトを導出できるように思う。

6年前になるが、「世界のあり方次第で人間のあり方は変わる。ドッグイヤーと呼ばれるIT分野の進歩の速さは他の分野の約7倍とされ、15年間で約105年分の進歩を遂げる」と書いたことがある。ムーアの法則のほうがよく使われるところをあえてドッグイヤーにしたのは、かつてないほどの発展速度を強調すること、45年で他分野の3世紀分進展する領域とともにその加速度を含めて並走して生きていく人間が何十億人といる未曽有の状況を示すためだった。

空前ではあるが絶後とはならない、空前に次ぐ空前の事態が連続する常態的変革社会の到来とその加速度の継続がありうるとすれば、ドッグイヤーならぬ人文知はせめて、いちはやく先手を打って予測するくらいはしなければその地位をうしないかねない、という危機感があったのだ。

Windows 95からかぞえて15年と意識して執筆した当時から6年のあいだで、AIが脚光を浴びドローンは進歩し大量のデータをいかすほうへIT関連企業が舵をきった。道具の発展が人類にとってつねに重大であったとすれば、テクノロジーの発展速度だけでなくその加速度の上昇は重大なだけでなく深刻さをともないはじめるだろう。

落合にとってテクノロジーが、個人としてどのようにとらえられるものなのか、僕はしらない。だがアートを鑑賞するさいに意識するもの――生(からつうじる聖、あるいは死)、アクチュアリティ(眼前にたちあらわれる現実)、政治や戦争(権力や掟、制度や争いはたえない)、作者の属性(個としてののがれられない問題系)、素材がどのようにありまたどう使うか(技術や運用)、新しさ(インパクト、刺激)、世界の把握(認識のありよう)など――に準じる要件を、落合のテクノロジーアートのアプローチ(「テクノロジー自体が作品になっている」)に見いだすことはできる。

キー概念は「普遍性」だ。美術史的な文脈をのぞけば、生やアクチュアリティ、政治、戦争、作者自身の属性や表現の新しさ、素材へのアプローチや世界認識の方法などは、ひろく普遍的に存在し、あるいはつねに希求されてきた要因としてある。落合のアプローチは、加速度をえたテクノロジーが普遍化した状況そのものを示し、それに特化して前景化したものであると規定できると思う。

テクノロジーについては、まずアクチュアルである(しかしいつまで「アクチュアル」で収まりつづけてくれるだろう)。生や死のありかたを変えうる(サイバネティクスやARなどによって)。政治制度や軍事を更新する(新しい道具はつねにそれをうながしてきた)。新しさをうむ(うみだしつづけるペースが格段にたかまる)。素材のあつかい、運用を変える(テクノロジーでは当然すぎるアプローチ?)。世界を把握するしかたや認識が変わる(常識をぬりかえてきた)。こうして列挙してみれば、美術史という文脈さえ無視すればアートとして評価される要件はじゅうぶんにみたしているといえるだろう。落合は美術史というものにこだわらないアプローチによって、アートがとりくんできた主題をたしかにてがけている。


さらに先に、あるいは仮説として、テクノロジーの加速度的発展の普遍化について。

それが何十年継続するかはわからないとしても、100年200年ていどつづいてしまえばじゅうぶんに一時代を築いたといいうるだろうから、今という時代から展望すれば、落合のアプローチは「新しい普遍性を前景化した作品群の嚆矢」と位置づけられる可能性が視野にはいりこむ。アウトサイダーアートに倣えば、外部要素をアートとしてとりいれるかたちでテクノロジーそのものをアート化するのもたやすい。


しかしながら、こうしたアプローチが一時代を築くのか、また落合自身の提唱する「魔法の世紀」という観念との関連については、筆者の思考のおよぶところではない。

さしあたって、美術史的文脈ぬきで成立するアート、というポイントにはひじょうに興味をそそられるのであるが……。




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