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能舞台で「コーカサスの白墨の輪」その1

今、ブレヒトの「コーカサスの白墨の輪」を能舞台でやっている。

えええええーーー。ドイツの作品をなんでわざわざ能舞台で?

と思っていたが…これが、やっていると面白い。


まずは、「能舞台」

能舞台は、本当に異空間だ。

全く、普通の舞台とは違う。普通の舞台だとなんとなーくごまかせる嘘やごまかしも能舞台では浮き彫りになる。

小道具や舞台セットを置かないことや、あの、独特の舞台の高さ、正面と脇正面や橋掛りの生み出す空間。。。

おそらくは、そういったものが舞台にのっている人間を観客に自然とクローズアップさせる。どんな細かな動きも観客の目に止まる。まな板の鯉。

そして、外側の動きもさることながら内面も丸見え。スカスカな人はスカスカに。中身のある人はそれなりに^_^💧

そして、自分に芯がないと舞台に負ける。居れない💧自分に確信というか、中心というか、私は私で今ここにいてますよという『在る』という感覚がないと居れない。もしくは、舞台に何のためにいて、何をしている。という明確さがないといたたまれない。ごめんなさいして帰りたくなる(笑)


そして、響きも独特だ。

作った声を許さない。嘘を許さない感じ。地声でないと響かない空間になっている。女子の媚びた少し高い声なんかはどうしても場が許さない。聞いてると笑ってしまうほど、どうしようもない違和感になってしまう。


在り方は、その人のありのままを求められるのに、外的な表現方法は、人間臭さを弾かれる。

生の人間ぽさやましてや現代人的なものは、どこかちゃちい感じでやっぱり舞台に負ける。何か存在に、寓話的なキャラクターや人間離れしたもの、ディフォルメされたもの…何か存在を飛躍させてくれる装置が必要だ。それは、衣装にも話口調、動きにも要求される。今の自分から離れて、大きく飛ばせてくれる何か仕掛けのようなものが必要な感じがするのだ。仮面を能でつけるのは必然なんだろうな…なんてことを思ったりする。


面白い。場に立つだけで俳優修行。

場そのものが、人としてありのままでそこに「在る」ことを要求し、そして、クリアしたその先に、自分を超えた大きなエネルギーとつながる可能性を与えてくれている。感じ^_^自分で在るってエネルギーとつながるための必須条件なんだろうな、それを能舞台はそこに立つだけでちゃんと気がつかせてくれる。凄い舞台。



自分でいれないときはもーいたたまれず容赦ないかんじだが、ある条件が揃えば、能舞台はエネルギーが生まれることを助けてくれる抱擁感、サポート感もある。

舞台に立つと、正面と脇からお客さんに囲まれていることや少し見下ろす舞台の高さ。自然光。そういうものがある独特の集中感と意識が上空に向かう流れ、かつ水平方向に広がる感覚みたいなものを生み出してくれる。


色々ある条件を満たせば^_^おそらく色々なことが起こってくる予感^_^


まだまだ、そこまで今回は試せないが、動きと言葉の抑揚の流れで、能舞台はまたおもしろいところへ連れて行ってくれるのだろうとも思う。


そう考えるとほんとに能ってすごい。日本の文化の奥深さを垣間見る今日この頃。^_^おもしろい。

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