インタビューその11:捨て去った過去も今も「すべてが一流」の人
イラストレーター&文筆家・陽菜ひよ子です。
今回の記事はインタビュー企画です。わたしのまわりにいる「クリエイティブな活動をしている人」に「仕事や創作」について赤裸々にきき、その人の「クリエイティブのタネ」を見つけよう!という企画の第11回。
今までのインタビューは↓コチラでごらんになれます。
今回お話を伺ったのは、画家でアートディレクターの梶原誠さん。
梶原さんの略歴など。
梶原さんとは、インタビューその2のかねこさんと同じく、絵本の展示『え~ほん展』で知り合いました。展示にも生徒さんや友人知人が来訪し、いつもたくさんの人に囲まれてる人気者の梶原さん。
昨年末、西武・そごうのCMやマルチビジョンに登場したクマのぬいぐるみの細密画は大きな話題に。
梶原さんの「リアル鉛筆画」の教室は『夜ふかし』などの人気番組に登場し、教室は常にキャンセル待ちで、ドンドン増殖中。
敏腕アートディレクターにしてリアル鉛筆画のカリスマ講師。そんな梶原さんの創作の秘密に迫ってみました。
スポーツとマンガ好きな少年時代
「夏休みの宿題」がきっかけ
――――梶原さんはご出身はどちらなんですか?
梶原:生まれたのは大阪の豊中市というところです。父親が九州の新聞社勤務で転勤族だったので、小学校に入学する頃に、東京→仙台→奈良と一年くらいずつ過ごして、小学4年からはずっと東京です。
――――関西のイメージは全然ありませんね。7歳まで大阪で小4から東京の場合、正確には大阪出身にはなるんでしょうが、感覚的には東京出身という感じでしょうか。
梶原:そうですね、大阪の頃のことはほとんど記憶にないですね。
――――子どもの頃はどんなお子さんでしたか?
梶原:おとなしい子ではなかったです。ボーイスカウトもはいっていたし、小学校から野球部でしたから。高校で甲子園にも行ったんですよ。残念ながらスタメンではなくベンチでしたが。
あと、中学時代は一瞬だけ卓球部で、荻野目洋子さんと一緒にやってましたよ。
――――絵を描き始めたきっかけは?
梶原:小4か小5のときに、夏休みの宿題で、絵でも文でも何でもいいから「夏の出来事を書く」というのがあって。僕はマンガを描いたんです。
めちゃくちゃ下手だったんですけど、先生からは褒められて。それがうれしくてマンガを描き始めました。
――――やっぱり、マンガがスタートなんですね。
梶原:そこからは学校の勉強は全然しないで、マンガばかり描いてましたよ。小学時代は『マカロニほうれん荘』が好きで、よく参考にしてました。
梶原:中学に入ると、技術的にうまくなりたいと思って、小山ゆうさんや平松伸二さんのマンガを見て、模写みたいに描いてました。
平松伸二さんは、実は今では交流があるんです。たまたまFacebookでお見かけして、僕が中2の頃に描いた絵を送ったら、喜んでくださって。
少年誌での漫画家デビュー
梶原:実は少年サンデーに投稿して、中3のときにデビューしてるんです。新人マンガ賞で10万円もらいました。
――――中3で!それはすごい!!マンガ家になろうとは思わなかったんですか?
梶原:いやまだ中3ですからね。絵の方向に行こうかな?と漠然と考えたりはしましたけど。編集部もそのままプロに、とは考えてなかったんじゃないですかね。
――――ちなみにどんなマンガだったんですか?
梶原:ちょっと恥ずかしいんですが『レモン色の交差点』という学園モノでした。実はあんまり学園モノには力を入れてなかったんですよ。
力を入れていたのはボクシングマンガで、『がんばれ元気』(小山ゆう)、『リングにかけろ』(車田正美)などに影響を受けて描いてました。
――――ボクシングマンガに力を入れたのには理由があったんですか?
梶原:父がボクシングをやってたんですよ。父は新聞社のスポーツカメラマンで、野球などの撮影をしていました。
――――なるほど、梶原さんが絵やアートの方へ進んだのは、お父様の影響もありそうですね。
料理とマンガ、梶原少年の選択
――――その後もマンガは描き続けていたんですか?
梶原:新人賞受賞後も、趣味で描いていましたよ。
小学4年のときに母が小料理屋を始めたんです。その店の常連客だったのが赤塚不二夫先生で。店に僕のマンガを製本したものを置いていたんですが、赤塚先生がそれをご覧になって、アシスタントに誘われたんです。
――――またすごいビッグネームですね。アシスタントというと、具体的には背景などを描いていたんでしょうか?
梶原:ほとんどトーンを貼ってましたね。クロッキーもやったし、4コマ漫画を徹底的に描かされました。描いた4コマ漫画は赤塚先生が批評してくださって。
――――それはもう英才教育ですね。才能を見込まれていたんでしょうね。
梶原:それはどうかわかりませんが、マンガは楽しくて、フジオプロには高校時代ずっと行っていました。でもいつもお金がなくて、週4でチキンラーメン食べてました。
――――おうちではご飯は用意してくれなかったんですか?
梶原:僕は高校時代から一人暮らししてたんです。都内で家賃9,000円の部屋に住んでました。トイレも風呂も共同でしたが、いい部屋でしたよ。一階がホカ弁で、階段を降りなくても部屋の前の電柱をスルスル降りて買いに行けたんです。
生活のため、就職したはしたものの
コックとアニメーター、二足のわらじ
梶原:マンガのアシスタントでは生活するのは難しいと感じて、高校卒業後は品川プリンスホテルのコックになりました。
――――コックとは、またすごい方向転換ですね。
梶原:母親の小料理屋を手伝っていたんで、料理は得意だったんですよ。モスバーガーでバイトもして、簡単ですが調理もしていましたし。
――――野球とアシスタントだけでなく、店の手伝いにバイトまで!それ全部こなすって、すごい体力ですよね。
それにしても、プリンスホテルのコックさんから、今の梶原さんにどうつながっていくのか、ワクワクします。コック時代について聞かせてください。
梶原:品川プリンスの別館16Fにあった「ステーキ&シーフード ニューヨーク」というお店で働いてました。当時(1986~1990年頃)はバブルで、プリンスホテルはスケートリンクやテニスコート、コンサートホールがあって、いつもたくさんのお客さんで賑わってたんです。
――――遠方からの宿泊客だけでなくて、都内近郊のお客さんも多かったんですね。
梶原:年末年始などは特に、めちゃくちゃ忙しかったです。
お店では最終的には料理長になりましたが、若い頃は給料も安いので、生活のために週1でアニメーターのバイトをしていたんです。
――――梶原さん、働き者ですね。アニメこそ、賃金が安いイメージですが、それはいかがでしたか?
梶原:まぁまぁもらってましたよ。当時はまだセル画の時代で、葦プロダクションや日本アニメーションで仕事をもらっていました。
『ミンキーモモ』も描いていたし、『マクロスプラス』は2ヶ月くらいやって、あまりに忙しくて寝る時間が無くなったので断ってしまいましたけど。
3~4時くらいまで仕事して、寝袋で事務所に泊まって12時からホテルに出社したりしてました。27~28歳になってたので、もう徹夜はきつかったですね。
アニメーターからアートディレクターへ
梶原:アニメはその後もかなりの数をこなしました。言われたものは何でも細かく描いて。背景とキャラのレイヤーを重ねて、編集作業までやってました。
――――ホテルを辞めたのはいつ頃ですか?
梶原:28歳で結婚したのを機に、おもしろくなってきていたアニメ一本に絞りました。
2001年頃、僕が31~32歳のときにはアニメーションの世界もデジタル化が進んできました。その頃には葦プロの社員みたいになって。日本アニメーションの仕事も手伝うという感じでしたね。
――――それで、今のアートディレクションのお仕事にはどうつながるんでしょうか?
梶原:デザイン関係の会社をやってる知人に誘われて、デザインの仕事を本格的に始めたんです。アニメーションでパスもやってたので、あとは実践で覚えていきました。それから20年。今は独立してディレクションの仕事をしています。
――――アートディレクターとしては、どんなお仕事をなさってるんですか?
梶原:S社(大手化粧品メーカー)やL社(フランスのオーガニックコスメのブランド)などのパンフレットを主に作っています。
――――スゴイじゃないですか!何をしてもちゃんと結果を出されているのに驚かされます。
カリスマ講師への道
リアル鉛筆画の研究から講師へ
――――ここまでまったく「鉛筆画」が出て来ませんが、いつ頃から始めたんですが?
梶原:2013年からです。
――――ではまだ10年経ってないのに、第一人者として売れっ子講師の地位を築かれたんですね。鉛筆画はどんなきっかけで?
梶原:アニメをバイトではじめた頃は、セル画を塗っていたので、もともとアナログが好きだったんです。その後アニメもデザインも、仕事ではデジタルばかりになったので、アナログで描きたいと漠然と考えてたんですね。
新宿の「思い出横丁」に行きつけの飲み屋があって、あるときマスターとママさんの似顔絵を描いたら喜んで店に飾ってくれたんです。それが割とリアルに描いた絵で。
それで、リアルに描く人や絵を徹底的に情報収集しました。YouTubeの動画で画材や技法を研究して、描いた絵をSNSに上げていたんです。
――――教えるようになったのはいつ頃からですか?
梶原:2017年頃かな。世界堂から声が掛かって、2月の個展を見に来てくれたので。
――――4年経たずにあの世界堂から声が掛かったんですね。
梶原:日本全国にはスゴイ人がたくさんいるんですが、たまたま東京には僕だけだったんじゃないですかね。
――――またまた、謙虚な。。。
人気講師として
――――それまでに人に教えたことはあったんですか?
梶原:アニメをやっていた20代の頃に子ども教室で油絵を教えていたことがあります。そんなに本格的なものでも写実でもありませんが。
あとは、頼まれて料理のカッティングを数回教えたことがあります。
――――教えたり人前で話すのは苦ではないんですね?
梶原:そうですね、ウチは母が小料理屋をしてましたが、姉もスナックを経営していて。僕もそうですが、家族みんな社交的なんですね。
――――今は世界堂以外にも、たくさんの教室で教えてらっしゃいますが、ブレイクのきっかけは何だったのでしょうか。
梶原:やっぱりテレビの力は大きいですね。「夜ふかし」に出た時は、反響がすごかったです。教室名が出なくても、見る人が見ればわかるようで。テレビ局に問い合わせもあって、秋田や大阪からも生徒さんが来てくれてます。
――――梶原さんの教室では、どのようなカリキュラムで教えてるんですか?お話しできる範囲で聞かせてください。
梶原:最初は見た通りに描く基礎的なテクニックから、ステップアップしてアレンジできるようになる技術を教えています。
――――それは梶原さんが編み出したオリジナルのカリキュラムなんですね?
梶原:そうです、僕が編み出しました(笑)。初心者は単純な三角や四角の石膏デッサンから入り、徐々に難しいものに移っていきます。
――――何が一番難しいんですか?
梶原:「髪の毛」と「手」ですね。あとは、右利きの人は「向かって右側へ走る人物」が苦手な人が多いので、そういった「苦手なもの」を描くコツを教えています。
――――実はわたしもイラストを教えたことがあるんです。わたしは割と生徒さんからの熱量や圧のようなものにやられてしまうことが多いんですが、疲れることはありませんか?
梶原:確かに教えるのにパワーは必要ですが、僕はあんまり疲れは感じないですね。ベテランの生徒さんとは、もうほとんど軽い世間話ばかりですし。
――――生徒さんの中には教えてる人もいるんですか?
梶原:いますよ。2017年頃から通ってる人はもうベテランなので。
――――でもまだ5年ですよね。5年で教えられるってすごいですね。
梶原:2~3年やればかなり描けるようになりますよ。
――――わたし実は昔、水彩の細密画もやってたんですが、10年やっても生徒のままでした・・・
梶原:・・・
CM出演と今後
西武・そごう「わたしは、私」CM出演の依頼
――――鉛筆画に関しては、講師以外にも、すごく大きなお仕事をされましたよね。西武・そごう百貨店のCMのお仕事はどのようなきっかけで?
梶原:世界堂に西武・そごうの企画部から「梶原先生と連絡が取りたい」と連絡があったんです。
――――絵を使用されたというより、まさに「ご出演」なんですよね。
梶原:そうです、顔は出ていませんが、手だけ出演しました。
――――CM「わたしは、私。 なくてもいいと言われるものと、私の心は生きていく。」では、メイキング動画と共に、梶原さんのプロフィールもドーンと載っていて。これは反響があったのでは?
梶原:そうですね、かなり多くの問い合わせがあって、亀有や綾瀬のセブンカルチャーでは、何名かキャンセル待ちが出てしまったんです。それで、急きょ教室を増やすことにしました。
――――いつお会いしても「教室が増えることになった」とおっしゃっているような気がします。
梶原:僕の主義として、習いたい人がすぐに習えないのは嫌なんですよね。申し訳なくて。
今後の展望
――――今後はどういったことをやっていきたいですか?
梶原:教えるのは楽しいですね。生徒さん同士で友達になったりして、みんなで集まると面白いんです。ただ、グループ展の準備に追われて、描く時間が取れないのが悩みです。
――――イラストレーター的な仕事はいかがでしょうか。
梶原:僕はできれば「自分の好きなもの」を描きたいんですが、イラストの仕事だと難しいですよね。
――――イラストレーターは、なかなか自分の好きなものは描けませんもんね。
梶原:でも、CMの仕事はありがたかったです。金額もすごくよかったですし。(とここで、具体的な金額を教えていただく)
――――うわぁ、それはすごい!やはり「出演料」だと、イラストレーションの「使用料」ともケタが違うのかな。それに、都心の大画面でご自分の絵を見るって最高ですよね。イラストレーターの憧れですよ。
――――今はおひとり暮らしですか?
梶原:ひとりで暮らして14~15年になります。ひとりでいると、絵を描く時間が増えますね。集中できていいです。
人と一緒にいると描けないんです。絵を描くときには音楽は聴きますが、テレビはつけません。人の話し声が聞こえると集中できないんです。
――――それにしても、漫画家デビューからアシスタント、コックにアニメーターにアートディレクターにリアル鉛筆画家と、ホントいろいろされてきましたね。
梶原:そうですね。
――――どこを切り取っても経歴がスゴイですよね。コックひとつとっても、プリンスホテルで料理長まで務めたと言えば、それだけでお客さんを呼べる店ができそうです。もったいないと考えたことはありませんか?
梶原:そういえば、どんぶりの店をやらないかって話になったことはありましたね。でも、うーん、自分では未練はないですね。
――――潔いですね。どれもそのときは精一杯やって、やり切った感があるからなんでしょうか。
梶原:今は、とにかく絵を描く時間が欲しいです。最近では油彩で細密画を描いているんです。油は乾くのに時間がかかるので、その間に鉛筆画を描いたりしてます。
――――油彩で細密ってめちゃくちゃ難しそう。ぜひ見てみたいです。
お知らせ
梶原さんからいくつかお知らせがあります。
まずはテレビ出演のお知らせ。
なんと、梶原さんの教室があの『チコちゃん』に登場!
と言っても、梶原さんご自身は登場しません。
生徒さんが何人かクイズに答えているのだそうです。
それにしてもスゴイ教室!通ったらテレビ出演できちゃうなんて。
少し先の話ですが、梶原さん主催のコンサートイベントです。
梶原さんの多才・多芸さと人生の多彩さに感服し切った時間でした。
梶原さんの半生がおもしろすぎて、お話した3時間があっという間。余すところなく書いたのに、今までで一番と言っていい程コンパクトにまとまったのが不思議。
梶原さん、素晴らしいお話をありがとうございました!
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