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「はたらく」とは「真剣にあそぶこと」

#はたらくってなんだろう

「はたらく」ことの意味や認識は、自分一人で形成されるものではない、と思う。誰もが多かれ少なかれ、親の姿を見て「はたらく」価値や意味を知る。

お店でラーメンつくるお父さんや、家で内職するお母さんを見て、昭和の子どもは「はたらく」ということを知った。今はまた少し様相が変わっているのかもしれないけれど。


できるだけ楽がいい、という価値観

長い間、私は自分の父親がどのような仕事をしているか知らなかった。
父は作業着を着て自転車で通勤し、交代勤務で働いていることは認識していたけれど、会社に行ってしまえば、その姿を見ることはできない。

どうやら、父の仕事は相当ハードだったようだ。
辛い仕事でも、私たち家族のためにじっと耐えて頑張ってくれていたのだろう。そう思うと父には感謝の想いしかない。

父は私には「楽な仕事をしろ。休みが多くて残業が少ない会社に就職しろ」といつも言っていた。
親心で、娘には苦労をしてほしくなかったのだろう。


父は工場に勤務し、母は実家の食堂を手伝い、姉はデパートで乾物を売っていた。私は家の中でただ一人、会社でパソコンに向かっていた。

姉がデパートに就職が決まった時、休みが多くないのが父はちょっと残念そうだった。だから私が週休2日の事務職に就いたときは、すごく喜んでくれた。

とはいえ、姉は接客業が好きで、デパート以外にも洋服のショップ店員などをして楽しそうに働き、休みが少なくても全然気にしていなかった。
適材適所が一番なのだと思う。


仕事とは辛いもの、という認識

母の方はどういうわけか「仕事とは辛いもの」「汗水たらして働いてなんぼ」という考えに頑なに支配されていて、母の中では「仕事=立ち仕事=しんどいもの」だった。

1日中座って事務職をしていた私は「あんたの仕事なんて遊んでいるようなものだ」とよく言われたものだ。

見たことあるんか!と言いたかったし、自分は会社勤めしたこともない母親にそんなこと言われたくなかったけれど、言い返せなかった。

父は私の就職を喜び褒めてくれたが、母は嘲笑した。

けれど、どちらの心の中にも共通してあったのは、結局「はたらくことは辛いことだ」という認識だったように思う。

父は「仕事なんてどうせ辛くて楽しくないんだから、女の子は少しでも楽した方がいい」と言い、母は「体を動かして汗をかかないなんて、仕事じゃない」と言う。

それは結局、同じことを言っているに等しい。

仕事に「やりがい」というものがあることなど、全く知らずにいたあの頃。
親からのこの呪縛は、長い間私の中に染み込んで消えなかった。


転職という転機

私の仕事はサポート的な事務職で、責任ある仕事は何も任されなかった。けれど、それに別段不満はなかった。

仕事なんて結婚までの腰掛だと思っていたし、会社からもそれ以上のことは期待されていなかったと思う。何なら自社の社員と結婚してくれたらありがたい、くらいに思われていただろう。

今だったらパワハラだセクハラだなんて大騒ぎになるようなことが、当たり前だった時代。女性はお嫁さん候補としても見られていた。

数年だけ楽に仕事をしたら結婚するのが幸せ、なんてことを本気で信じていたのだからおめでたい。今にして思えば。

けれど往々にして物事は予定通りには進まない。数年最初の会社で働いた後、私はまったくの予想外に転職することになった。

理由は絶望的に仕事ができなかったから。特にコピー取りや単純な入力など、誰にでもできるようなことがうまくできず、劣等感にさいなまれた結果だった。

同時に全くモテず、このままこの会社にいても寿退社などできそうにないとも思ったのだった。

当時の私は、劣等感と敗北感でできたお人形。

何かを変えたい。夢も目標も何もない。このまま生きている意味などあるのだろうか。ギリギリまで追い込まれての選択だった。

その後就いたCADオペの仕事をして初めて「仕事が楽しい」と感じたように思う。でも結局「やりがい」を感じるまでは至らなかった。今だったらもっともっと楽しくはたらくことができただろうに。

どこかで「仕事を楽しもう」とする自分にブレーキをかけていたのかもしれない。私の中で当時はどうしても「仕事は辛いもの」という意識をぬぐうことができなかったのだ。

そのことに気付き、呪縛から逃れられたのは、様々な仕事を経て10年以上の月日が流れてからだった。


呪縛を解いた出会い


呪縛から解かれたきっかけは、ふたつある。

某テレビ局でWebの仕事をしているときに、上司に言われたのがこんな言葉だった。
「陽菜さん、仕事は楽しくなくちゃだめよ。毎日朝起きると『今日はどんな楽しい出会いがあるかな?』ってワクワクするようでなくちゃ」

上司にそんな言葉を言わせるほど、当時の私は鬼のような顔をして仕事をしていたのだろう。そう思うと申し訳なくてため息が出る。

その言葉を聞いたときには、違和感しかなかった。何を言ってるのだろう?仕事が楽しいわけないじゃん。楽しかったらそれは仕事じゃない。私はますます、眉間にしわを寄せながら仕事をした。

そのときすでにイラストレーターの仕事もしていたのに、まだ呪縛から逃れていなかったのだから、親の影響とは恐ろしい。


ついに開放

決定的に私を呪縛から説いたのは、今のオットとの出会いだった。出会ったときには、私はすでに30代後半になっていた。

現在はカメラマンをしている彼は、当時はシステムエンジニアをしていた。私を驚かせたのは、とても多忙で土日に休みを取ることすらままならないというのに、彼がとても楽しそうに仕事をしていることだった。

彼は「会社も仕事も大好きだ」とさらりと言ってのけた。

本当はデザイン関係の仕事がしたかったけれど、親族に関係者がゴロゴロいて、自分には無理かなとあきらめてしまったと言う。けれど、SEだってクリエイティブだし、お客さんに喜んでもらえるのはうれしい。SEの仕事も気に入っていると微笑む彼は満足そうだった。

しかし、仕事はハードで、会社は限りなくブラックに近かった。それでも彼は、文句も言わず働き続けた。無理をしているというより、本当に楽しそうに見えた。

結婚して数年後、彼は身体を壊して退職することになるのだけど、それだって私がお願いして辞めてもらっただけで、彼自身は会社の愚痴も弱音も、一度も吐いたことがなかったのだ。こんな人に会ったのは初めてだった。


仕事とは真剣な遊びである

オットと生活を共にするようになってから、テレビ局時代の上司の言葉の意味が、やっと理解できるようになった。

楽な仕事なんてない。仕事は大変なものだ。時に辛いこともあるだろう。
けれど、仕事は楽しいものでもある。自分から楽しんだっていい。
そう考えるようになれた。


退職後、オットは専門学校に通い、数年後にはカメラマンとして生計を立てられるようになった。今となれば「もうSEには戻れない」という。

彼ももう無理はしなくなった。さすがに楽しいからと言って、無理をしたら体を壊すことを学んだのだろう。

それでもきっと、彼はもう一度SEに戻ったとしても、楽しんで仕事をするだろうと思う。どんな仕事でも、その中に楽しみを見つけられるかどうかは、自分次第なのだから。


私自身も、オットのカメラマンとしての収入が安定するまでは、本業のイラスト以外に様々な仕事をした。デザインやライターなどの創作系だけでなく、事務的なことや荷物の発送業務など、やれることはなんでもやった。

必死だったし辛いこともあったけれど、それ以上に充実を感じた。

どんな仕事にも、毎日何かしら新しい発見がある。日々の気づきを新鮮に感じられれば、どんな仕事だって楽しいと気づいた。

もちろん、どのように割り切っても楽しいとは思えない「辛い仕事」というのも、この世には存在しているだろう。

それでも「仕事が辛い」のは「当たり前」ではない。
「仕事は楽しんだ方がいい」と思う気持ちに変わりはない。


そんな私たちの今の生活は、一見ゆるい。

打ち合わせや撮影が入らなければ、好きな時間に起きて好きな時間に眠って、どこにも出かけない。そんな気楽な毎日は「辛くなくては仕事じゃない」と言った母親に見せたら卒倒しそうだ。

母の言う通り「遊んでいるようなモノ」にしか見えないかもしれない。
当の私たちですら「遊んでいるようなモノ」なのにお金をもらえて申し訳ない、と思うこともあるほどだ。

けれど、私たちは真剣だ。真剣に遊んでいる。

額に汗水たらしてはたらいてはいないけれど(カメラマンは時に汗を流すこともある)、手のひらに嫌な汗をかいたり、不安で眠れなくてじっとり寝汗をかくなんてことはよくあることだ。

それでも朝は「今日はどんな出会いがあるだろう?」とワクワクしながら目覚める。ガッカリすることも多いけれど、うれしいことだってちゃんとたくさんある。


仕事をして生き残っていくことは大変だし、楽じゃない。常に生きるか死ぬかの世界なのだ。けれど仕事は楽しい。この世の何よりも。

はたらくってことは、どんな趣味よりも楽しいことなのだ。

はたらくってことは「真剣な遊び」なのだから。

少なくとも私たちにとっては。



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陽菜ひよ子 / インタビューライター&イラストレーター

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