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なぜ、物語で主人公を成長させなければいけないのか


成長物語とストーリーの関係

 「主人公と成長」というテーマで記事を書いてみようと思い立って、しばらく考え込んだ。
 ストーリーには成長物語が多くある。子供が大人になる。未成熟が成熟する。それだけに私が結論として言いたいことは理解を得にくいかもしれない。もしくは熟練者にとっては自明なことだと思われてもしかたない。

 つまり、「なぜ、物語で主人公を成長させなければいけないのか」というタイトルは、「物語で主人公は必ずしも成長する必要はない」というふうに書き換えることもできるからだ。これは「主人公の成長こそ物語だ」と言いたい論理にとっては反論となる。その意見を真っ向否定したいわけでもない。なんせ私は物語制作にかけてはズブの素人だからだ。

 しかしイチ読者、観客としてはある程度物語を観てきている。そのなかでは名作と言われるものも駄作と思われるものもあった。名作の中には「主人公が肉体的、精神的に成長しているように見えない」ものや、駄作の中には「主人公が何らかの人生教訓を得たり、肉体的に成長しているように見えるもの」があった。

成長しない主人公たち

シェイクスピア:ハムレット

 ハムレットは成長しない。ありとあらゆる破滅を経験して、その破滅に自分も飲み込まれて終わる。

映画『チャイナタウン』のジェイク・ギテス

 ギテスは成長しない。彼は物語の中で追い求めていたものを砂のように手のひらから悉く落としてしまう。

小説『1984』のウィンストン・スミス

 スミスは成長しないどころか、読者にとっては堕落の頂点で魂まで奪われる。

小説『ミレニアム』のリスベット・サランデル

 『ミレニアム』は3巻までしか読んでないが、リスベットが成長したとは私は思えない。彼女と対となる第二の主人公ミカエル・ブルムクヴィストも同じく。

漫画『ダンジョン飯』の主人公ライオス

 私はライオスの人間性は始めと最後で大して変化していないと思っている。どちらかというと読者はライオスの心の深さをストーリーを通して「知って行った」ように感じている(ダンジョンに潜っていく過程とシンクロしている)。ライオスは好感を持たれにくい種類の主人公だけれど、「ダンジョンの魔物を食べる」という発想を物語の冒頭に持ってきて読者の好奇心を煽り、徐々に主人公に「慣れて」いく、慣れた結果好きになるという構造を作ったのがこのストーリーの素晴らしいところだと思っている。

では彼らはどこに向かっているのか

 私が物語制作で参考にした書籍はロバート・マッキーのその名も『ストーリー』である。脚本制作用の教本だけれど、ストーリーテリング全般に適用できると思っている。その中で、マッキー氏は「主人公を成長させよ」とは書いていない。
 第3部「ストーリー設計の原則」に「ストーリーの本質」という項目があり、観客を物語の最後まで惹きつけ感動させるだけの、精神力や注意力をどのように引き出すか、が書かれている。まとめるとストーリーの真髄は以下の2点になると思う。

  1. 観客を、その物語の中で許される限りの極限状態に連れていく。

  2. 物語が進む中で、主人公は不可逆的で意味のある変化を遂げなければいけない。

 上記の2点から言えることは、主人公は観客を物語上の極限状態に連れて行けるだけ願望、意志の強さ、行動力、動機、魅力を持っていなければいけないということだ。逆に言えば、それを持ってさえいれば成長する必要はないと言える。

 「極限状態」とか「意味のある変化」というと、「皆既日食の影を利用して大きな錬成陣を描く」とか「巨悪に勝てるだけの戦闘能力の爆増」とかを思い浮かべてしまうけど、ここで重要なのは「その物語の中で許される範囲」という条件付けの部分だと思う。

 つまり、ラブコメディであれば意中の人に受け入れられるかどうか、ミステリーであれば犯人を追い詰めて、犯罪に至る「なぜ」を余すところなく知るなど、作者が設定した物語ごとに定められた極限の範囲ギリギリまで、読者を連れていくということだ。

 「主人公を成長させる」というのは、「物語の階段を登っていく」「主人公の限界の範囲をわかりやすく広げていく」ことの表現手法の一つに過ぎないと思っている。

主人公の成長が必須要素なら、物語の初めは主人公は幼稚でなくてはいけない

 私は長らく『赤毛のアン』が苦手だった。アンの子供らしい感受性が押し付けがましく感じたのである。しかし最近読み返してみて、「アンを取りまく大人たちの物語でもある」と解釈できるようになってからはすんなり物語の世界に入っていくことができたし、感動した。

 「成長物語」を物語の原則とするなら、幼稚とまではいかなくても、主人公は明らかな不完全さを持っていないと物語の土台が成立しないということになる。その不完全さを補っていく過程を物語にする、という筋立てになる。
 つまりは大枠で見れば始まりも終わりも決まっている。未熟な主人公がいて、成熟して終わる。そこに物語の限界が生まれてしまわないだろうか。ストーリーテリングの歴史とは、作家たちが勇気を振り絞って表現の限界に挑み、可能性を押し広げてきた歴史そのものではないのだろうか。でなければ『1984』は黙殺されただろうし、『デミアン』のような悪魔との遭遇が文学として評価されるだろうか。

子供の中の大人、大人の中の子供

 私が幼稚な主人公が受け入れにくいもう一つの理由は、自分の幼年時代にある。

 私は子供の時には、自分の内面に何人かの別の存在を感じて、そのうちの一人はたいそう冷めた物の見方をしていたと思う。知らないことやできないことは確かにたくさんあったが、それを指摘されるのは嫌だった。プライドが高かったのである。

 主人公が幼稚で始まることが必須ならば、一般的に言われる「幼稚さ」を経験できなかった、大人びた子供には物語にリアリティを持たせることができないと言うことになる。それは違うと多くの人は知っているだろう。

 また、幼年時代がよく用いられる理由に「幼い頃に遭遇した印象的な出来事ほど最強」という不文律が鎮座しているせいもあると思う。少年時代に憧れの人に麦わら帽子をもらったとか……。それをひっくり返すと、「子供時代に何もなかった子供には語るべき夢がない」ということになってしまう。しかし実際には、動機や夢というのは、初めは小さなきっかけにすぎず、日々選び取る小さな行動によって少しずつ強められ、本人と一緒に成長していく相棒のような要素の方が強いのではないだろうか。

 およそ物語で主人公と言われる人物には、当然幼年時代があった。それはバックストーリーとして考えるべき要素の一つであることに変わりはない。ただ、ストーリーとして切り出す上で必ずしも語る必要があるだろうか?

 なぜ自分の物語には幼年時代が必要なのか? あるいは必要ないのか? 深く考えていくことで、もっと研ぎ澄まされた物語が作れそうな気がする。



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