ストーリーのエレベーターピッチに挑む。
スティーブン・キングによると、一度作った物語は寝かせろという。紙が古びてクタクタになるまで放置したとき、大概の内容はカスになっているが、わずかでも輝きを失わない部分のある作品が、良作になる可能性を持っているらしい。
具体的にはどれくらいの期間を空けるかは明記されていなかった。なんでキングはそんなことを言ったのだろう。一度頭を冷やせということ以外の意味はあるのだろうか? 今年の3月から三ヶ月ほど小説教室に通っていた時、私は小説家として生きるつもりだった。35万文字書き上がったけれど、どんどん次を書こうと思っていて、教室に通っている期間は、『Eschatologia』のことを忘れるようにしていた。
物語のタイトルについては、昨日の記事にまとめている。
『Eschatologia』は小説としては2月に書き終わった。4回改稿して、自分としてはこれ以上直せないというところまで、徹底して磨き上げたと思っていた。
小説を眠らせるうちに迎えた変化
まず一つは、小説教室に通ったことで、「自分の作品は難しい」「簡単には受け入れ難いテーマ設定をしている」といういうことが実感できてきた。新人賞に応募して選んでもらうという、通常の流れで商業作家を目指すのは諦めた。自分が表現したいテーマこそが、自分の作家性を支えているからだ。
二つ目には、現在は無職だが、仕事を見つけて行こうと思った過程で、フリーランスを検討し、手始めにコンペに出品したりで活動してみた。すると私は全力で直球を投げると、自分が意図した的には当たるが、それは周囲が意図した的ではない、ということがわかった。
大真面目なのに、徹底的にズレている。妥協できる点さえそんなに多くない。そうなったときにできることはひとつしかない。
もっとやることにした。
私のストーリーは難しい。受け止めることも、理解することも。私ができることで、作品のためにできることはまだあるだろうか……そうだ、漫画にしよう。
コミカライズとは、コミカルにすること
作品を数ヶ月放置している間も、さまざまなことを考えるし、考えながら、小説や映画やアニメを見る。物語を作る前よりも、ストーリーやキャラクターを深く理解できるようになっている。
何を見ても、「この作品にあって、私の作品にないものはなんだろう?」と考える。おそらくはこの時間、この思考こそが、キングの「作品は寝かせろ」にある意味なのではないか、と思わなくもない。アンテナが立ちすぎてフサフサになった心でいろんな作品に触れると、作る前には見えなかったものが見えてくる。当然、自分の作品に対して見えていなかったこと、表現しきれてなかった部分が見えてくる。
私は自分の作品を信じている。だからこそもっと良くしたい。作品を放置している時間で、作家脳から編集者脳に切り替わっていった。
当初、エレベーターピッチなどしゃらくさいと思っていた
だって、一言で表せない感情があるから、35万文字という作品にぶち込んだのだ。エレベーターで執行役員と乗り合わせたわずかな時間で作品を売り込むことを想定して作品の魅力をまとめるだなんて、そんな機会おそらくは一生ないだろうし、私とは無関係だ。何かのきっかけで作品を目に留めてもらい、立ち止まって読んでもらい、夢中になってもらう、これが想定していることだ……と、最近まで考えていた。
でもじょじょに編集者脳で作品を見つめ直すうちに、「読者が作品に期待すること」をシビアに考えるようになっていったし、物語の外殻は出来上がっている分、エンターテイメントとして強調できる部分を見極める余裕も生まれてきた。だいいち、私がある作品の前で立ち止まったとして、一番に考えることは、「要するにこの作品はなんなんだ?」に他ならない。だからあらすじを探すのだ。本を裏返したりカバーのそでを眺めたりして。
『Eschatologia』は一言でいってどういう作品なんだろう? 独自性はどこにあるんだろう?
名作は一言で内容を表すことができる。
心が柔らかくなったので、いっちょ、エレベーターピッチを考えてみることにした。手始めに、名作のエレベーターピッチを考えてみる。見えてくることはあるだろうか。
親友に裏切られた男が、鬼ねちっこい伯爵に成り上がって復讐劇を繰り広げる話。
とんでもなく長生きで無敵の魔法使いエルフが、大事な人たちの死後、自分の人生の思い残しをはらすため、次の世代の若者たちと旅をする話。
簡単な罪で投獄され、青春を奪われた男が、ただ一度の愛の行為によって改心し、以降何があろうと献身を貫く話。
子供のいない老いた姉弟が、やたらとロマンチストなお騒がせ孤児を引き取って育てる話。(やたらとロマンチストでおてんばな孤児が、子供のいない老いた姉弟に育てられて、素敵なレディに成長する話、と言い換えることもできる)
それぞれに一癖ある阿呆の狸4兄弟が、亡き父の意志を引き継いで面白おかしく生きる話。
超管理社会で生きる男が恋愛し、自由を求めたが故に拷問され、堕ちるところまで堕ちる話。
おちつきのない都会青年が田舎に赴任し、村社会で生きづらさと闘う話。
猫が文明人の生活に触れ、文明猫になっていく話。
社会不適合な天才ハッカーと歪に成熟した記者が出会い、自分たちなりのやり方で巨悪に立ち向かう話。
カリスマ的な極悪人の血を引くさわやか青年が、ギャングに入団し、ギャングスターに成り上がる話。
日本のある都市で起こった猟奇殺人事件に、気高い勇気を持った人々が挑む話
坊ちゃん育ちで優男の仙人が、800年の時を超えて最強のダーリンに見つけてもらう話。
名作のエレベーターピッチでわかること
頭の中であらすじと映像がパッと浮かんでくると同時に、ほくそ笑んでしまうのが名作だと思う。エレベーターピッチには共通点がある気がした。
細かいストーリーは忘れてもピッチにできるほどのあらすじは忘れることがない。
「キャラクター」もしくは「ある属性で結びつけられた人々(群像)」が「何をした」でまとめることができる。主語、述語の関係。
それぞれの「一言」は唯一無二。作品を特定することができる。似た作品はないか、忘れられる。もしくは候補の1番に上がってくる
上に挙げた作品群は発表年代や国にばらつきがあるが、ピッチ内容には「舞台」や「時代設定」があまり問題ではないかもしれないと考えた。物語は時空や次元を軽々と越えるのだ。キャラクター性にある程度の時代や舞台を反映させることができる。伯爵とかエルフとか宇宙飛行士とか。しかし舞台や時代背景を強調しすぎると、「知らない」「難しそう」「私とは無関係」と思われる可能性がある。
私の電脳チューターであるChatGPTに聞いてみた。
創作物には「新奇性」とか「オリジナリティ」が重要と言われることがあるが、「普遍性」も同じくらい重要なのだろう。私はファンタジーSFを作り始めた当初こそ、舞台設定こそが重要だと思っていた。でもある程度物語が出来上がってくると、普遍的なテーマやキャラクター性にストーリーを引っ張っていく力があると考えるようになった。
キャラクターの成長や感情の動き、普遍的なテーマが物語の中心になることで、読者に共感や感動を与える要素となる。独創性のある世界観を成立させたら、普遍性によって読者とコミュニケーションをはかるのだ。
では改めて、『Eschatologia』はなんなんだろう?
主人公は一人ではない。群像劇。ピッチに含める主語は複数形。
物語の内容は戦いではなくて人間模様や生き方の方が色濃い。
物語の結末は、勝利や自己実現というより変化や友情。
以上を踏まえて、さしあたり作成した『Eschatologia』のエレベーターピッチである。
不死の王、88歳の庭師、温室育ちの天才音楽家。全く違う人生を生きてきた、いびつな男女3人が、マッドサイエンティストの起こしたしょうもない事件によって出会い、無二の親友になる話。
ピッチにまとめることで見えてくること
エレベーターピッチとは、「要するにこういう話」という一言に作品をまとめたものだ。まとめ上げたピッチを眺めていると、「ピッチを読んだ読者はこういう印象を持ち、こういう展開を期待するかもしれない」というのがぼんやりと見えてくる。
見えてきたことに基づいて、作品にめりはりをつけていきたい。
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