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毎日数学解く私・・・。浮気を超えて大不倫、との噂。

生徒たちの前で数学と格闘している。
高校入試の難問、共通テストの図形問題、それから結構難しめの二次試験だったり・・・。
ときどき生徒に、

もう立派な大不倫だよねえ・・・。


と言うと、

もう今更・・・。

と言われる始末。

最近では時折、数学の先生だったと思い込んでいる下級生たちもいる。

こころは数学に飛んでいるが、でも国語の指導になると心底ほっとして落ち着く自分がいるのも事実である。
英語はその間かなあ?

ここで岡本かの子さんの話もしてみたりする。
よく覚えているわけでも、出典を拾ってこれたりするわけでもないが、確か若い外科医の先生だかを好きになって、こともあろうに旦那様に、

パパ連れてきたいの・・・。

だとか言ってその若い男性も同居したとかいう。

そんなことを思い出すくらい、ちょっといけないことしているという罪の意識もある。

何に対して?

もちろん、長年連れ添った国語に対して。

最近、数学好きの猛者も入塾して来たりしているし、来年の高校三年生は思い切り理系である。その後の学年も理系が続く。

でも、何気に数学と国語は親和性がある。

連立方程式について、

ぼく、計算はできるんですけど、文章題になると・・・。

と言う生徒に対して、

それはね、国語力の問題よ。文の通りに式を立てていけばいいだけよ。

と話す。

そのまま言っていることを理解して、図にすることができて、そして立式するだけである。
作業はまるで国語の文を作っていくような。

昔から連立方程式が大好きだった。
ストーリー性を感じたし、二つの方程式の解が、式をグラフにしたときにその直線が交わったところに同一の解があるというのが、とっても嬉しかったのを思い出す。

高校に分野だと、突然図形が好きになってしまった。
最近図形にハマっている。

それから積分。昔から微分よりも積分のほうが好きだった。
なぜかなあ?便利な気がするから?

数学って、本当にきれいな世界。
世界一シンプルで端的で美しいストーリー。
誰にでもどこでも通じる世界。

それに洗練させていくという点で言うと、文章を構成していくのとどこか通じる。

国語の指導をしていると、文章が見えてくるようになる瞬間があるが、どことどこが呼応しているか?どことどこが論理的にきれいにつながっていて、シンプルな論理構成にした時に、どれほど美しいか?と考えるとき、時に唸ってしまうことがあるが、私はそういうとき、国語を理系的にとらえている自分を感じてしまう。

だから、法律の中でも刑法が好きである。

昔河合塾の現代文の問題集の中で三島由紀夫の文章に出会った。
その中で、法学部出身の三島が、ただ一筋に論理を追求する刑法が一番好きだった、ということを言っていて、思い切り共感してしまった。

家族のために、むしろ論理性よりも感性を大事にしていた時代、私は、昔どこかに置いてきた世界を思い切り眼前に広げられたような気がした。
あのときの、自己の本音をさらされた気がした、変な発見を忘れられない。

思えば大好きなものを封印して子育てしたり、あるいは夫を支えてきたりしていた。
記号論など好きだと言ってはいけない。
哲学の話などしてはならない。
あれこれあれこれ禁止事項があった。
誰かにはっきりとダメと言われたわけではないけれど、自分の好きなことは、周りに良い影響がないように思えた。
封印したものを解いて、そのものを見てしまうと、何か大事なものに気が付いて、何かが壊れそうだった。

その後、いろんなことが手の中に戻ってきた。
でも、どこか自分の中でバランスを取りながら、既存の大事なものはそれはそれとして、勝手に自分の世界を構築し始めた。
その一つが数学との再会かもしれない。

今は不倫状態かもしれないが、きっと私の中で融合するときがくる。
私自身を冷笑している自分が、そんなことしなくても、きっと微笑んで自分のことを見つめられる日が来るだろう。

同じように、子どもたちに封印したかのように語らなかったのは人権についてである。
ことそういうことに敏感な京都で学んだくせに、そんなこと言いだしたら、今いる地方では決して生きていきやすくはないだろうことは肌で感じていて、人権についてなど、かつて母が勝手にどこかで学んだ理屈であるという扱いで、そういう難しいことを語ったことはなかった。
でも、日々生きていると、知らない間に子どもたちに基本的な考え方というものは伝わっているものである。

怖いくらいに考え方が三段論法になっていたり、権威や義務に敏感だったり、誰がそんなことを教えたのだろうか?ということを言い出すこともあった。

わが子を思うとき、できるだけ生きていきやすく、人生を送らせてやりたい。無用な苦労は避けて通らせてやりたいと思ってしまう。
子どもたちの身体や精神面を考えると、仮に社会的地位が高かろうと、お金がたくさんもらえようと、そんなことよりも、なるだけ無理をしないで、健康的に生きてほしい。家族が仲良く、自分自身が実質的にしあわせであってほしいと願う。社会的な使命よりも、安穏な人生を、とわが子可愛さに思ってしまう。

とわが身勝手な親は考える。
でも、理屈は大事。ちゃんとした理屈って大事である。
とそう思ってしまう私もいる。


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