面談と新規入塾の体験授業と指導が続いた日に思うこと
昨日、連休の最終日は、思い切り仕事三昧の日だった。
朝から在塾生の面談。次も在塾生。
そして新しい生徒さんの面談と体験授業。
そして最近は言って入ってこられた生徒さんと保護者の方と、ちょっとお茶してから指導。
この新しい入塾生の生徒さんには、大いに助けられている。
お家が「菜っちゃん」(JAさんの野菜を売っているところ)にお近くだとかで、私があれこれお料理をすることが好きだということを知って、お家の野菜を買いに出かけられるのに、ついでに私の分も、面白い野菜を買ってきてくださるのである。
誰かからいただいたものは、自分で選んで買ってきたものよりも、与えられた感があり、
さて、何作ろう・・・?
と思うのが楽しくて嬉しい。
それに、私のことを思って選んでくださっている時間を思うとなお嬉しい。
開業当初は、なんだか教室のブログのほうにも、お料理の話や、そのほか考えていることなど、あれこれ教師以外の面もたくさん織り込んで書いていたものだった。これはお手製のHPのほうだった。
人様に作っていただいたHPのほうは、どうも格好つけてしまっていけない。
そもそも生活と学びとは同じ延長線上にあり、私にとっては、どちらも楽しいものである。
それが業者さんに作っていただいた方のHPには、教師面、あるいは相談を受ける側としての顔をして、そこからしか語れないようで、しんどいのである。
最近は、教師のほうオンリーになりがちで、だからそれ以外のことを省きたくて、言ってみればメリハリのないあり方になっていた。
これはコロナの影響もあったと思う。
自宅と教室の往復で、コロナの間もそうそう生活は変わっていないと思っていた。
でも、以前のようにサーッとカフェに行ったり、ショッピングモールに行ったりなどは、職業柄控えていた。
昨年の夏だって、第五類に移行したとはいえ、気を遣ってあちこちで歩いたりはしないようにしていた。
当然に太りもした。だからツケが回って今ダイエット中であるが、時間をかけて乗った体重はなかなか減るものではない。
そんな中、そもそもの私らしさを思い出すような、保護者の方からのお野菜。主婦らしい話も交わして、ご近所であれこれ話していたころを思い出す。
思えばどこからか野菜がたくさんやってきて、それをアレンジしてお料理するのが大好きだった。
私は生活と仕事を切り離して考えるのがあまり好きではない。
もちろん、職場では家庭などないかのように、家庭では仕事の話はしないようにと努めていたころもあるにはあった。でも、それよりも自分の環境を少し見せた方がよいと思うようになったこともあった。
むしろ先生としてよりも、人間として関心があるように見えていた生徒や保護者の方もいらした。
面倒なのは、同世代のお母さまの場合、ご自分の来し方を私に重ねられて、やりたかったこと、過去の実績などをあれこれ語られる方である。
そういうのはできればご自分で処理していただきたい。
とはいえ、そういうことを聞いておくのは、教室としてではなくて、社会全体の構造などを考えるときには役立つ。
私はそもそも具体で考えるだけの人間ではない。
具体的に、自分が今思うように生きているとかそうでないとか、キャリアがどうだとか、あるいは子育てが、とかそういう風には考えられない。もう少し大きな視点でものを考える癖がある。
それをよしとしているのではなくて、どうもそういうところがある。
それに今自分が何かをした時の周りへの影響も考える。
先日、専業主婦の友人と話していて、ちょっと気に障ったことがあった。それを言うのが友達なのかそうでないのか考えている。
でも、ちょっとモヤモヤしている。
今の生活に至るまで、本当にいろいろあった。
嫁に来たての頃は、正直、26やそこらで、
私の人生終わった・・・。
と思いながら、娘を妊娠中に、街を歩いていた。
今まで頑張って勉強してきたことは何だろう?
もちろんその思いは夫への大きな不信感にもなった。
その後、専業主婦としてあれこれ苦悩もしてきた。
別居も経験した。転勤もした。家も建てたり(別に私は家にこだわるタイプではないから、なんでこんなことするんだろう?と考えていた。高校の恩師は学者の旦那様と団地住まいで、そのことに憧れていた。だって、本をたくさん置いてもビクともしなさそうである。)もした。
まあ、なんでも都会から来た嫁のせいになる、大いなるモラハラの世界にずっと生かされていた。
彼女は別居しているお姑さんとのことを私に話すが、まあ、共感する部分もあるが、その程度だったら、まだ良識がおありのように思えるという話をされる。
○○って言われたんだよねえ。いやじゃない?
と言われて、時に、
それはねえ・・・。
と言いつつ、でも、そのお母様の悪口になるようなことも言えず、ほどほどにする。
すると、
まあ、私が○○だからその程度すんでいるのかもしれないけど・・・。
と、まるで嫁の在り方でお姑さんの在り方が変わってくるとでも言いたそうである。
そうそう、それを考えてきたのである。
ずっと。
私が○○だから至らないから、だからなのではないか?
でも、それって周りから言われる筋のものではない。
そんなこと言うなら、仕事をもってほしいというご意向のお家に対して、何もしなかったご自分のことをおっしゃればいい。
こういうの、どうすればいいのだろうか?
本音を言うのが友達?それとも、表面的に付き合っておけばいい?
それとも距離を取る?
私はあまりそういうことで波風立てたくないし、彼女との関係性においては、きっと私のほうが悪くなりがちだろうこともわかる。
いわゆる強さの問題で、強い側から弱い人に行ってしまったということになるだろう。
触らぬ神に祟りなしであろう。
彼女は私が仕事をしていることが気になっているのを知っている。
でも、さすがに、
親に感謝しろだとか、私の仕事上の選択へのちょっとした批判はちょっと聞き捨てならなくなってきた。
まあ、女同士の人間関係ってそういうものかもしれないけれど。
どうして、女同士の場合、同じ女というひとくくりの考え方が適用されたりするんだろう?
同じ男という括りってあまり聞かない。
人の人生について話を聞くのは相手の問題であろうが、聞いた話に生半可にあれこれ言うものではないなと思う。
人の話をじっと聞いて、そのことにあれこれ言わない人って尊敬する。
そうそうアドバイスが欲しいのではなくて、聞いてほしいということが多い。
私は人が悪いのだろうか?
彼女の周りのお姑さんも小姑さんも、よくお出来になる方である。
仕事の面も、それ以外の面も。
だからある時にちょっとした行事のときのお茶出しの件で、義妹さんから注意を受けたらしい。
その義妹さんの気持ちは相当によくわかるというシチュエーションだった。
まあ言ってみればキャリアウーマンが、専業主婦の仕事のスピードの遅さに呆れて言葉を発してしまったという感じだった。
とはいえ、そういうことなら専業主婦のほうが得意そうな分野だった。
そのことを訴えられた。
正直、ああ、それは言うものではないなと思った。
私なら、相手が仕事が遅くて仮にイライラしてもそれを言わない。
実際、姑がさっさとしてくれないことに対して何かを言ったこともない。
第一、そういことを言ったとしたら、たくさんの人がいようと、発狂される。ほかの人が言っても大丈夫なことでも、嫁に言われたー!となり、
そんなこと言わんといてー!
と地団太踏まれたことがある。
だからとっくに諦めている。
言われて傷つく方もどうかと思う。
傷つくなら、お茶の一つを入れるスピードを上げればいい。
何十年嫁をしてきて、責めるべきは自分である。
とはいえ、言う方も言う方だと思う。
と書いていて、なんどかそれを考えてきたように、そろそろ距離を取った方がよいかなとも思う。
聴かせていただいて、同世代の女性の考え方を知るのは社会を知るという意味では良い。
ただ、どうも何にもわからない仕事のことにまで口を出されたらやはりやっていられない。
調子を合わせて話しているが、どうも生きている場所が違う。
と思っている。
苦行になっているならやめればいい。
友達が多いと言われる。
でも、誰が友達?と思っている節もある。
もしかしたらこういうの、心を開いていないということになるのかもしれない。率直に彼女に本音を言ったりもできない。
かといって、高校や大学の友達にそれができるか?と言われたら、それもできないな。
立ち位置って大事だと思う。
昨日、そのお母様に、
最近、教師一辺倒で、こういう主婦らしい会話ができなくなっていて、楽しいです。
と話したら、
でも、先生は先生!
と言って、なぜかこちらの思いに素直に感謝してくださる。
英検の二次試験で、新しく入れてみたシステムの中で出題されていた問題が、
そのまま出たんですよー!
と感謝してくださっている。お子様に良いことがあったことも、
先生なら喜んでくれると思って・・・。
と言って、報告してくださる。
こういう小さなことがこちらのモチベーションになる。
互いの生活を認めつつ、相手の立場も考えながら、素直に対してくださることが嬉しい。
昨日の面談は、疲れた面もありながら、でも、嬉しいことも多かった。
あるお母様が、なかなか他人には言えないようなことを私に話してくださった。
信じてくださっていることがわかる。それを口外することは絶対にないということをわかってくださっている。
まあ、よほど社会問題になるようなことがご家庭にない場合、お母様の賢さって、本当にお子様に反映される。
賢さって、学歴とかいうような単純な問題ではない。
ご自分のご機嫌をご自分で撮ることができ、ご自分の問題を自己の中で解決することのできる力のある方は強い。
また、新しく入られる生徒さんの保護者の方は、こちらは教室のHPのブログにも書こうと思っているが、三人の男の子を立派に導いておられる。
親としてできることの精一杯を一生懸命にお子様にされている。
親としての子どもを見る目、その判断。お兄様方の育ち方をお聞きしていても、本当に賢いお母様だなあということがわかった。
そういうのは互いに通じるもので、こちらの敬意は、あちらからの信頼としてこちらにも十分伝わってきた。
こういう、成績を上げてくれるという、そういう事柄面だけでなくて、その人自体への信頼という、もっと大きなことを見てくださっているのは嬉しい。
ちゃんと怒ってももらえそうだし、この子をしっかり人として見てくれると思って、などと言っていただいて、私の目指す教育がわかってもらえているのを感じる。
成績だけ伸ばそうとするなら、違うところに行ってもらうのも良い。
ただ、成績だけというのは怖いし、それって将来につながるものとそうでないものがありうる。学校ではないのだから、ちゃんと棲み分けとして塾は教科というのもありだが、その実効率的でない面も知っている。ちゃんとその子を見て、その子に合ったことをした方が、いざというとき自分で頑張る力になる。
難しいなと思うのは、受講料をお金として判断し、そこからものを言うことである。
一種の手段ではあるのかもしれない。
でも、お金から語るとき、子どももお金換算しかできなくなる。
というより、お金の価値について、よほどのことがない限り、まだ判断力がないのである。
そういうときもこちらがかみ砕いて説明することもある。
労働という観点から、お金がいかに大事か?
そして、お金がいかに人を本気にするものなのか?
賢いなと思うのは、ちゃんと切り分けて考えられる人である。
上の子にこれだけ掛ったから、そういうものだ。
また、この子は上のこの二人ともまた違うタイプだから、今のうちに、などという判断ができる人である。
昨日も感心させられた。
この子は、こういうところが弱くて、○○だから、今のうちにやっておかなければ・・・。
今こうしておいたら、後で楽かなと思って・・・。
親御さんのお子さんへの思いが明確で、塾に預けるその姿勢も明確なのである。
こういう場合、本当にやりやすい。
塾への期待も過度になりすぎず、なんでも塾任せで、漠然と成績を語ることはない。
お金自体の価値はニュートラルである。
ただ、使い方を誤ると、とんでもない方向に進む。
それは言葉も同じである。
親が子どもを教育するには言葉が必要である。
言葉の使い方で子供はいかようにでも育つ。
まるで植物を育てるときの水や肥料のように。
同じ内容でも、つまりはお水や肥料の量でも、そのやるタイミングややり方によって変わるように。
言葉をもつことは武器だと言われる。
先日の保護者の方とのお茶とお食事でも、言ってくださった。
先生は、まっすぐしてるけど、ちゃんと言葉で返すことができるから。
私はその言葉が出なくて、言えなくて、後悔したことがたくさんあります。
そうか、私は言えなくてはないなあ・・・、と思っていた。
言わないというのはある。でも言えなくて、はなくなってきた。
どこかに論理があって、こういえばうまくつながって、相手が嫌な気にならずに聞けるという筋を持っているかもしれない。
同じ言葉という材料を持っても、つなげ方、順番で内容は変わる。
でも、それをおっしゃったお母様は、このしばらく本当に頑張られた。
嫌なこと一つおっしゃったことのないお母様である。
辛い時期を一緒に乗り越えてきた。
それがここにきて、本当にその頑張りを神様から認められたのか?というような結果となって表れてきている。
しばらくの間、なぜか心が通じないと思って、しんどい時期を過ごした。
なぜか最近、心通じる瞬間が多くなってきている。
どうしてだろうか?
いつも人のしあわせとは?本当の賢さとは?と考える。
目の前のこの子が、誰かに勝つためにではなくて、この子がこの子の人生をよりよく生きるためにという視点をもてるか?ということが母親としてのしあわせであり、賢さなのかな?と思ってみたりする。
しばらくぶりに、かつて先輩たちから教わった、生徒や保護者から学ばせていただくことの喜びをここ数日感じさせていただいて、しかもたくさんの賢さに触れて、私はかなり嬉しい気分である。
偉大なる哉、母!
もしもサポートしていただけましたら、そのお金は文章を書いて人の役に立つための経験に使います。よろしくお願いいたします。この文章はサポートについて何も知らなかった私に、知らないうちにサポートしてくださった方のおかげで書いています。