私が大きな病院に行かされたこと
一昨日の晩、ベッドに入って、なぜか胸を触ってみた。
乳がんの早期発見のためにそうすることを推奨されてはいるが、そのことを思ってのことだったかどうかもわからない。
単純に最近体重が載ったことを(この一週間はストレスがたくさんあり、変な食事の仕方をしていた。要するにちゃんと食べないと太る。しかも何気に睡眠不足で、これも私は太りやすくなる。)気にしてのことだったのかもしれない。
左胸に、今までなかったしこりがあるのを感じた。しこりとまではいわないかな?ちょっと抵抗のある部分。
かつて札幌で、先輩の奥様というよりおばあさまに近い方が、
いや、出産した後、授乳後の影響なのか、なんだかしこりみたいなのはあるものよ・・・。
とおっしゃっていたのを思い出し、それかな?と思ってみる。
でも、右の胸にはないので、少しばかり気になった。
結構ボリュームのある左乳房を持ち上げてみた瞬間、目を疑った。
とんでもない赤いものが広がっているようで、かつて読書会の絡みで読んだ、谷村志穂さんの『余命』の、乳がんの描写の部分を思い出した。
いくら何でも、これは何かあるだろう?何にもないということはない。
鏡に映してみると、大きな大きな内出血のような濃い濃い、赤紫のひろがりがあった。
何を思ったか?
起こすのはまずいと思ったけれど、まずは一階で眠っている母を起こして言った。
申し訳ない。お母さんにこっちに来てもらったのに、私、乳がんかもしれん・・・。
私は好きなことしてきたし、結構あれこれ楽しんできたし、子どもたちも自立しているから、別に私自身は思い残すことないけど、お母さんをこっちに連れてきたのに・・・。
母はそうそう動揺せずに、聞いている。
とにかく明後日病院に行こう。
でも、脳裏にあったのは、ひどい話、本当にひどい話。
これで入院となったら、ちょっとは休める、と思ったし、せいぜい『源氏物語』全巻を持ち込んで、この際読んでやろう。
それより先に、食事が全部出るだろうから、眠りに眠ってやろう・・・、と思ったのである。
検診に行っていなかったことも反省した。
何より仕事。
最近バタバタあれこれあったから(結構面談が多かったし、あれこれ考えることも多かった。)、眠っていないし、自治会でもあれこれ神経を遣うこともあったし、教室であちこちぶつけたりコケたとしてもそうそう覚えてもいない。
これは本当にレアな場所ではあるけれど、どこかにぶつけたのを忘れているのではないか?
確かどこかで結構痛い目に遭ったような気がする・・・。
教室には(元唐揚げ屋さんだったので。結構繁盛していたらしい。)、カウンターがある。辞書やオーディオがある。玄関前まで伸びていて、夜全部の電気を消して、玄関に下りるときにぶつかりやすい(今思い出した。たしかぶつかった。)。それにそのカウンターはちょうど胸の下あたりの位置にあり、ぶつかるにはちょうどよい高さで、
ははーん。これか・・・。
と思い、昨日の夜検証済みだったので、
もう病院行きたくない・・・。
と言っていたが、小さな可愛いママちゃんは、デイ・サービスを休んでいつもは自分の診察のために行く病院に着いてきてくれた。
他の大きな病院は、行きたくない理由がある。行けないわけではないが行きたくない。
そのうち、この病院も行きたくない理由になる人が誰か入ってきたらどうしよう・・・?と思うくらいに、ここしかない状態である。
母にしてみたら、私がサボるのではないか?という懸念があったに違いない。
そもそも受診案内のところで職員の方にお聞きしてみると、
乳がんで内出血はないよ・・・。
と言われ、
受診していかれる?
と聞かれる始末。
挙句の果てにまだ受付も終わっていないのに、外科に連れていかれて、看護師さんに見てもらうことになった。
ところが外科の看護師さんがいらっしゃらなくて、私はマンモグラフィの検査に行かされ、しばらくして、
超音波空いてなかったけど今の時間だと空いてるから行って来て・・・。
ああ、これで今日診察できるわ・・・。
という、ある意味呑気なのか慌ただしいのかわからない話になって超音波の部屋に行った。
妊婦検診以来の超音波。
これもひどい話で、寝ている間に、眠りそうになる。
おそらくはこの頃にはもう、どうってことないことくらいわかっていたのだろう。
ここのところ疲れていた。
受験指導が終わり、春期講習が終わったけれど、母との花見をたくさんし、この時とばかりに家事に精出していた。眠ろうと決意して眠ったのは二日ほど。どこかで、もし来年がなかったらいけないから、と今年は母をあちこち連れて行き、お食事もたくさんしてきた。
そんなときに、生徒のあれこれが発覚した。
たかが私塾で、そういう対応をしなければならないのか?案件もあったけれど、聞かされるということは私の課題だろうし、そもそも聞かされるということは、生徒が助けを求めているということである。
自分の若干嫌な思いもしながら、あれこれ分析し、
この話おかしいなと思い、他の生徒にもヒアリングし、全貌を捉え、何が起こっているのかということを理解し、そしたらこれから対応策は?となり、正直重たくて疲れた。
人が疲れているときに、ご近所の工学部出身の方はあれこれ周りで嫌なことをなさるので、しかも会議では周りも驚く過激な発言をするので、お付き合いのある私(私のことは別に嫌いではなさそうである。あちこちで私の名前を出しているらしい。(笑))は結構ストレスだった。
仕事の邪魔をしないでほしい。
ラインで仕事の連絡を取っているときに(指導の戦略系。)、横で母は、診察のために、
番号呼ばれたんと違うの?三番言うてはるけど?
などと細かい指摘をしてくる。この人はせっかちであり、間というものがない。何にも言わないと、何にも考えずに、つまりは人の状態など考えずに、自分の疑問を投げかけて来る。それに、そこに対応しなければ、大変なことになると思っている。
病院の人の指示で、身長を測っているときに、呼ばれて気付かなかったとしても、それは仕方がないのに、あれこれ言っている。
一瞬イラっとして、イラっとした返し方をしたら、横にスタッフの人がいて、その後、えらい気遣われた。嫌な奴、私。
結果、やっぱりどこかにぶつけたのだろう・・・、ということになった。
血腫ができていたらしい。内出血らしい紫色のあざの内部に。
でも、隠れたものがあってはいけないとのことで、三か月後にまた診てもらうことになった。
今回の反省。
ちゃんと検診を受けること。
一瞬だったけど、入院している自分、手術をしている自分を想像した。
家族への知らせ方も。
それに、何を考えたかと言うと、我ながら呆れたのは、どれだけ教室を休み、来年の受験にどれほど影響があるだろうか?保護者や生徒にはどう伝えるか?ということのみだった。
私に大切な人がいないのか?というほどに、私がいなくなってのことは全然浮かばなかった。
ただ、高齢の母のことのみ。
それ以外の人には、するだけのことをしてきた。
言って見るなら、人のしてきたことのありがたみもわからない人たちなので、
もう、後は自分でやって!
とでもいう気分だったのである。
どうしたって、
この人たちが、私がいなくなって、どう思う?
という発想になれない。
もうそれぞれの人生を歩むことだろう。
これって、おそらく自分を大事に思ってくれているということを受け止められていないのである。
それは母に怒られた。
あなたがいなくなったら、どれだけの人が悲しむと思ってるの!?
後追いするって言った人間もいるというのに!?(そんなわけないやろ?と思っているし、いやいや色っぽい話でもないけど。)
後追いっていったいどうやってするのだろうか?
夫を亡くした奥さんより、奥さんをなくした旦那さんの方が多そうではあるが。
大の大人が死ぬのは相当大変そうである。
そうそう方法もありそうにないし。
現実的でないことを言われても・・・。
だいたい誰かが死んで、後追いという発想が良くない。
自分の人生くらい自分で責任もたなければ。
今回の件での反省は、だいたい私から思っている人も、私があれこれしている人もたくさんいるけれど、私を思ってくれている人があんまりいないと思い込んでいることである。
それを母に正された。
どうも私はこの世に、仕事をしに来たようである。
それに、軽々しく病気に対して語れないのだということ。
自分は一晩だけでも、自分に何かあったときのことを考えた。
その対象は、ほぼほぼ高齢の母のみだった。
自分が思いのある人はたくさんいる。
でも、どうしても自分がいなくなって誰かが悲しむとは思えない。
このおかしさ。
いなくなった後のことを一瞬考えたのは事務手続きや、教室どうする?
プライベートのことは誰にでもなんとでもしてもらおう。
これってある意味男性的な?
とはいえ、父は結構、しっかり後のことはしておいてくれた。
義父の方は部外者だったので何にもわからなかったけど。
最近思う。
すべての人の人生が結構ハード・モードで、みんな何も言わずに乗り越えているのか、それとも私自身の人生が結構ハード・モードなのか?
勝手にハード・モードにしているだけなのか?
それとも、結構なんとも思わずに起こったことに対処しているうちに、どれもこれもやるしかないという発想になってしまったのか?
もうわからなくなってきたけど、とりあえずどうってことないことに、少々振り回されて、病気になっている人への配慮がちゃんとしているのか?心に寄り添うことがある程度はできているのか?
そして、兼好法師の、「友にするにわろき者」よろしく、私は自分の身体を過信しすぎて、嫌な奴になっているのではないだろうか?
と考えさせられた。
ただ一つ思い出さされた。
初めての妊娠。
娘を身籠っていたとき、妊婦検診で子宮頚管ポリーブを見つけられ、すぐに摘出してもらったが(手術というほどではなくて、ただ、内診時に取ってもらっただけ。)、でも、子宮頸がんの疑いがないわけでもなく、病理検査の結果が出るまで気が気ではなかった。
超音波の画像には、もうしっかり赤ちゃんが育っていたから、この子をどうする?と思い、大変な思いをした。
それから、札幌で、小児科に二人入院していたその看病に十日位付き添ったあと、3,4日ごとに高熱を出し、内科の先生に叱られ、血液検査の結果から、
ああ、やっぱりね・・・。
と言われ、抗核抗体が高くて、膠原病の疑いを持たれたこと。
対症療法しかない病気について、
子どもたちがまだ小さいのに、どうしろって言うんですか?
と先生に言ってしまった。
あの頃は切実だった。
自分がいなくなったら、子どもたちはどうなる?と真剣に考えることができた。
病気になった人間のことのことなど、どうのこうの考えてもらえる家ではない。
迷惑だとしか考えられなかったことだろう。
夫に離縁されて、夫が再婚したら、子どもたちは私の知らない人に育てられることになってしまう・・・。
まだ小さかった子どもたちを思って泣いた。
それも大学病院で200ほどもの項目を検査されて、先生のおっしゃるには、
無罪放免
となった。
その頃に比べれば、本当に大したことないことで終わってしまった。
ある種の不謹慎さをもって。
あれこれ反省させられた。
いろいろすみません・・・。
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