忙しさと内面と
そもそも国語の教師なんて考えてなんぼ。
考え深いといわれたり、誰もそこまで考えないよ、と言われて生きてきた。
それが周りと違うと悩んだこともあったけれど、年を重ねるにつれてそれは私の個性になって来ていると思う。
自分でも認めている。
ちょっとばかり自分の心に沈潜していくようなことがあり、普段通りに生活し、当然仕事もし、この3日間はいつもの土日よりも幾分忙しめである。
けど、そう健康的な現実世界のこともしているけれど、家にいるとどこか思い詰めてしまいそうな自分がいる。
そのことを知っている家族から、朝、ちょっと話を吹っ掛けられて、
エッ?誰のこと?
と答えたら、
ああ、そう言ってるんなら大丈夫。
と逆に安心された。
というくらいにはちょっと堪えていたり、でもどこかホッとしていたり、複雑な心境で、そのことによる暗さと明るさがまるで正弦曲線を描くみたいに交互にやって来る。
思えば人生というのはそういうものだ。
プラスかマイナスか行ったり来たり。
人間万事塞翁が馬ではないが、一つのできごとには当然相反する価値が内包されている。
あまりに明るい人にはかつての苦悩を乗り越えた過去があったり、あまりに優しい人にはかつての辛い思いを乗り越えた経験があったりするように、ある一定の特性というのは相反する経験の賜物であったりもする。
その価値観の行ったり来たりが統合されずに、そう自分の中で統合されずに困ることがある。
統合されるには時間が掛かる。それでいい。
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