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泥臭い努力が意外に?好きです。ー最も思い出になるし・・・。

結婚式で主賓の挨拶をしてくださった大先輩の先生は、私の嫁ぎ先の、つまりは現在の住まいのあるところの、最難関の高校をお出になり(つまりは今私が生徒さんたちをよく送り出している高校になるけど。)、とんでもない学者先生で、大学院は私の母校に進まれたので、間接的には先輩ということになるのかもしれない。

この先生には鍛えらえた。
気難しいし、学者だし、新任高校教諭として走り回っていた私など、本当にガサツ者だと思われていたに違いない。

ただ、

マメやねえ・・・。

とおっしゃったり、

先生のお人柄でそこは・・・。

と言ってくださっていたし、周りからは相当可愛がられていたように映っていたらしい。可愛がられる、ということはイコール単純に鍛えられるということである。

他の先生にはほどほどのことを私は何度もピシッと怒られた。同じ教科の先生ならまだしも、私は同じ教科ですらない。というより、同じ国語科の先生方って、結構プライド高めで、誰かにアドバイスするとかされるとかを許さない感じがあったのかもしれない。国語というのはもしかしたらそういう教科なのかな?

その先生が話は戻って、主賓の挨拶の時に、絶対に、

新婦は無類の努力家で・・・。不器用ながら一生懸命やっておりまして・・・。

と私のことをけなげな娘、的な話をされるだろうと思っていた。
ところが、

真弓さんは、なんでもやれることのできる人なので、これからは走ってばかりではなくて、時には立ち止まって考えることも・・・。

エッ!?何?この話。

いきなり新婦は首をかしげる。
ついでにお仲人さんも、

あんなこと言われたら気取ってもいられないわね!

などとおっしゃっている。

違うやん。私、いつもめちゃくちゃ疲れながらも頑張っていたはずなんですけど・・・。

楽しそうに仕事していたらしく、よっぽどこの仕事が好きなんやな説があるのは知っていた。
そりゃあそうでしょ。私は婚約者が首を長ーくして待っていて、母まで懐柔済みにされていた期限付き教師。その後はめでたく?奥様業にならされることが決まっていた。逃げきれなかったと言えよう。(笑)

ただ、私は両親も認める努力家であり、決して器用なタイプではないはずだった。
それなのに、それなのに・・・。

ただ、今もそうだけれど、興味関心があり過ぎる。
どれもあきらめきれない。
家庭のこともより楽しみたいし、仕事ももっともっと楽しいことがしたい。
仕事をおっくうに思うことなどないし、もっと面白いことはないかな?といつも思っている。
今だって目論んでいることの一つや二つ、三つや四つ。
街に出れば、ビジネス的な何かを思い着くこと数知れず。
お店に入れば、これはうまい方法だなあ・・・、と感心したり、逆に、これは良くないなあ・・・、と思ってみたり。

さすがに仕事柄、コロナの影響が強かった時期にはショッピングセンターにも行けなかったし、本屋さんにも行かなかった。
すべてはネット。下手すれば食材もネット。
最近は結構お買い物に行くようになり、ああ、発想も何もかもコロナの影響で出掛けなかった時期には富士格だったけれど、それなりに気分が停滞していたなあ・・・、と思い出す。
本を読むのもあまり進まなかった。

それにカフェに行って時間を過ごすことも大事である。

話が多いに逸れた。
おそらく若いころは、経験の蓄積がない分、それに今しかないとばかりに一生懸命に走り回っていたのだと思う。とにかく教師として早く一人前になりたかったし、今しかできない経験だと思い、生き急ぐように仕事していたのだと思う。全体的にゆったりした教育現場で私は何をしていたのだろう?

できてなんぼの学校で育った。たぶんそうだったのだと思う。
それが習い性になっていたのかもしれない。
ただ、本当に泥臭い努力が私は大好きである。
ほんの一ミリでいいから前に進みたい。
毎日、たった一つのことでもいいから昨日よりは習得できていたい。
お料理だって、新しいものを作り出してみたい。
指導だって、できることを広げて、いつでも生徒たちになんでも役立てるようでいたいし、生徒の前で勉強ってとっても楽しいんだよ!ということを伝えたい。

どんなことも泥臭い努力で成り立っている。
昨日、ビジネス系のYouTubeが流れてきて、おもしろそう・・・、と思っていたら、成功者は誰でも泥臭い努力をしている。華々しいところしか見ていないだろうけど、みんな泥臭いことをしているという話に、とっても共感した。
私はおよそ成功者とは言えないけれど、それでもなにがしかの成果を上げるにはその成果に見合うだけの泥臭ーい努力をしているものだと思う。
華々しいところだけいただくなんてとんでもない。
もちろん、出発点としての能力差があることは認める。
認めるが、しかし、能力差などどっかに行ってしまうほど、泥臭い努力を続けること、つまりは粘り強さほど強いものはないということを知っている。

よく地頭がいいから、とか、能力があるから、才能があったから、という表現を聞く。それを聞いたとき、私はいつも思う。

いやいや、好奇心ほど強いものはない。好奇心があるから、失敗しても失敗してもその先に行って見たくなる。つまりはだから続けられるのだし、粘り強くもなるのだと思っている。

だから、なんでもできるとか言われても、心外中の心外で、なんでもできるのではなくて、私は、人まね子ザル、おさるのジョージを見ては、

ああ、仲間がいる―!

と心の中で叫んでしまうほどのやりたいことの塊のなのである。
それが年を重ねた分、やっぱり最近は蓄積ができてきて、結構新しくやることがそうそう新しいわけではなくなってきていて、もしかしたらちょっと面白くなくなってきているような気がしている。

若いころを懐かしみはしないし、羨ましくもない。
ただただ、まだ何も知らない、まだできることが少ない、というその先の知らないことがたくさんあるということだけは本当に羨ましい。

と言って見ても、もし今若いころに返ったとしたら、おそらく私は、またもや経験の少なさを理由に、バタバタバタバタ走り回ることになるだろう。
それにしても未知なる場所を開拓していくって、本当に楽しいことだと思う。
道のないところに道を作っていく。
本当にドキドキワクワクすることだ。

もしかしたら私、何か立ち上げでもしたいのだろうか?
とにかく退屈してきているのは確かである。
いえ、することはたくさんある。
でも、それだけではなくて、何かちょっともっと面白くてドキドキワクワクするようなことを欲しているのは確かである。
子どもっぽいと言われようとも。

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