地震があって、大学の先輩から安否確認が来たこと。同級生のこと。
地震があって二日後、大学の先輩から安否確認のメッセージが送られてきた。近しくはないけども遠くはない先輩からだった。
やはりありがたくて嬉しかった。
こういう時にどういう人かわかるというもの。
そして私は、そう言えば・・・、と珠洲市出身で、お隣の金沢に住んでいる大学時代の同級生がいることを思い出した。
彼は同じ文学部。クラスも同じで部活も同じ。吹奏楽でのパートも同じ。どこに行っても顔を合わせていた。
ただ二回生から三回生に上がるときに私は部活は辞めた。いろいろ理由があり過ぎて一言で表せなくて、当時、いろんな人にいろんなことを言っていたと思う。
父が反対していたというのも大きいし、将来のことを考えたら、もうこの辺で・・・、というのもあった。大阪から京都に通っていて、時間的に無理があったというのもあるし、かなりの部分人間関係というのも結構理由の中にあったと思う。そろそろ学問にのめりたくなっていたのもあるし、迷惑かけることが大嫌いな自分の心の中は結構大変だった。周りにも本当に申し訳なかった。
就職という面で言うと、就職に思い切り有利な部活だった。応援団吹奏楽部だったから、企業にはとんでもなく評判がいい。ある企業にどうしても入りたくて、志願兵としてリーダーに自ら入った同級生もいたくらいである。
私は教員になりたかった。でも、一方どこかでみんなとの間に乖離めいたものを感じていたことも否めない。それに一回生で思い切り熱くなってしまった自分は、結構二回生の時にはサラッと乗り越えていて、演奏会前だというのに、教職教養の授業に出るような塩梅だった。どこか学問への志向が強くなっていたような気がする。
不謹慎で、本当に不謹慎なのだけれど、入部するときに、心のどこかで、いつまでかなあ・・・?と思っていたような気がする。むしろほぼほぼ無理やり私を入れたのは、夫となった先輩の方だった。(笑)
高校の先輩もどこか同じようないきさつで、オーケストラを辞めたということをお聴きした。とんでもないいいわけではあるが、もしかしたらそういう高校の性質なのではないか?と思ってみたりする。どこか熱いけれど、どこか覚めて見ているというような。
好きなことばかりしていていいわけではないというような?
辞めてからも、同じ学部だから、その彼とは顔を合わせていた。
苦い思いもしながら。
辞めたくて辞めたわけでもなく、混乱に混乱を極めた挙句、どこか自分の心の芯からの声が、続けられない、というものだった。
その彼とは部に在籍していたときから、喧嘩ばかりしていた。部を辞めてからも文句ばかり言っていた。ほかの男子との方がよほど仲が良かった。
四回生になって、ほかの内定はもらったけれど、教員に採用されたのが誰よりも遅かった。それでも教職浪人は免れたけど。そのまだ決まっていない時期、友人を通して、彼が私のことを心配していた、という話を聞いた。図書館で会ったときに、それとなく就職する場所があることは話していた。
卒業式で、もうこれで会うのは最後だと思っていたのに、声を掛けられなかった。どうしていいのかわからなかった。どこか心残りで、後悔するだろうことはわかっていたのに、声を掛けるとか挨拶するとかできず、ほかの同級生たちとキャッキャキャッキャやっていた。というかそうしていた。感情的にそうしていた。
そして彼と同じゼミの友達に、よろしく、とだけ頼んだ。
教員になって、先に卒業していた夫になる先輩と一緒に定期演奏会に出掛けたときにスーツ姿の彼と出会った。
教師になる人というのは○○で・・・。
と褒められた。それから私と彼が再会することはなかった。
彼の勤務地は金沢。おそらくそこから動かなくてもよさそうだった。夫は二年地元で働いた後、金沢勤務となった。同じく車やバイクであちこちお客さんの所を回る仕事をしていて、2人はたまたま会うこともあったようである。こじんまりとして落ち着いていて、どこか華やかな金沢での出来事である。
ときに二人は一緒に飲んでいた。
彼の結婚の報告を聞いたのも夫からだった。
美人?
と訊いたら、
それはもう・・・。
らしかった。(笑)
夫も、その時までも私と付き合っているのかと訊かれて、そうだと答えると、
ああ、良かった。
と言っていたそうである。
次に飲んだときには、私たちの結婚が決まっていて、彼は、
どうぞよろしくお願いします。
と頭を下げてくれたらしい。これは私だけではなくて、金沢に住んでいた後輩が転勤で引っ越すときにもわざわざ出掛けて行ったらしい。
勝手にみんなのお父さんかお兄さんのようなことをしていた。誠実で情が熱いのだと思う。まあね、暑苦しくて、人の進路に介入するところもあったけど。
二回生の部の個人紹介で、自分のプロフィールを書くところに、十年後は何していると思いますか?というところがあり、そこをチェックされ、その時はそれなりに模範解答的に、ちょっとお利口な気分だったのか、おとなしく、
三人の子どもに恵まれ、優しい旦那様に尽くし、可愛い子供を育てる専業主婦。
と書いたら、
よしよし・・・。
と言われ、これがバリバリキャリアウーマンとか書こうものなら、いったい何を言われたものだかわからないのだったということに気付いた。当時、文学部のほかの男子からも、あれこれツッコミを入れられ、
あんたはまた、大学出たのに、そんなお嫁に行くなんて、それでいいんかな?とかまた賢いこと言い出すやろ?
などと言われていたから。保護者はあちこちにいるようであった。
幾分男尊女卑的傾向のある人たちだった。(笑)。
そして少々時は移り、私たちが札幌に住んでいた頃、共通の後輩が、北海道旅行の帰りに会いたいからと千歳空港に呼び出された。
その時に、情報通の彼女から、その彼からの年賀状を見せられ、なんと三人のお子さんと一緒に、大和撫子風な美しくも賢そうな素敵な奥様を中心に、一番下の子を抱っこした喜色満面の顔をした彼が写っていた。
良かったな。本当にしあわせそうで・・・。
心底嬉しかった。
それから音沙汰はなかったし、再会もなかった。でも、その写真を見て、どこかホッとし、それからそれまでほど思い出すこともなかった。
ただ、地元に帰り、お隣の金沢にいることは知っていたから、何かの折に、彼が住んでいるらしい場所を通ると、ああ、元気にしているかな?とチラッと思ったものだった。
今回の地震では、その彼の実家のある珠洲市が甚大な被害を受けた。
珠洲市という場所があることを、初めての文学部での自己紹介の折に知った。そのときの彼の様子を今でも覚えている。
たしか、
能登半島の先端から8キロほど入ったところで・・・。
と言っていた。
大学に入って、初めて京都より北にまだまだ知らないところがあることを意識した。旅行以外では、他府県に出たことがなく、親戚も大抵当時は大阪で(いまや一緒にお正月に集まっていた従弟たちは、結構国際結婚をしてあちこちに散らばっていたりする。国内ではやはり大阪、せいぜい京都、兵庫位である)、正直感覚的には、日本全国大阪だと思っていた。
それが京都駅に行けば、夫となる先輩が、駅にぶら下がっていた、「いい人いい味生き生き富山」の旗?を指さして、富山県や石川県を意識するようになった。
今回の地震は凄かった。
正直人生初の揺れを経験した。
責任の問題で、その時は生徒の安全を考えるのに必死で、数日は余震と指導のことばかりを考えていた。
なんとか共通テストに無事送り出さなければならない。できるだけ落ち着いて勉強させなければならない。
彼は大丈夫だったのだろうか?ご家族は?ご実家のご両親やご兄弟は?
急に身近なこととして感じられた。
そこで先輩にお願いした。
そして死亡者名簿の存在を知り、彼の姓の人を探した。二度見たけれど、同じ名前の人はいなかった。
ああ、良かった。
情の厚い彼が、こんなことでご両親を・・・、などということになったら、どうなってしまうだろう?
もう長年会ってもいない彼である。
それでもこころの中にはいて、ちゃんと大事な時には心配している自分がいる。会いたいとかは全然思わない。ただ、元気でしあわせにしていてくれたらいいだけである。
誠実な人だったんだなあ、と思うし、男女の友情は成り立たないとか女同士の友情は成り立たない、とか言うけど、そんな小さな括りでなく、気になる人はいる。ちゃんと生きていてほしいなあ、と思える人はいる。
心底相手のしあわせを願えるという人がいるって、実はありがたいことだ。
できることなら、彼のご実家がご無事でありますように。
明日の共通テストもドキドキしているけれど、こちらは生死にかかわることで、本当に神様にお願いしている。
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