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塾経営を通して感じていたこと。開業したときの思いを思い出したこと。言わねばならないこと。

公式をしっかり使えこなせなければこの問題解けないなあ・・・、と思っていた。わりに数学好きの女子生徒の個別指導をしていたけれど、どうも苦戦しているなと思って聞いてみたら、なんと重心、内心、外心の定義がわかっていないのだった。
そこで、教材を各分野別の問題集に替えて総復習することになった。

基本的なことが相当にできていないと、使いこなせないと演習だと言っても無駄な時間になる。
ときに指導中、この手の指導の内容をさっと変えるということが何度もある。
これは予備校で、たくさんの人数の生徒を相手に授業をしていた時もそうだった。
数人に指名して答えさせてみて、

あら?わかってないのかしらん?

と思った場合、急遽教材を印刷しに行ったこともあった。
とにかく目の前の生徒が伸びるためにはすぐに行動するようにしている。

例えば古典文法が甘いなと感じた時には、古典文法。古文常識がまだあやふやなんだなと思った時にはその説明のためのプリントを持ってくる。

が、今回はちょっと迂闊だったなと反省している。
数学の面白いところだけれど、そこがわかっていなければ解けないのである。手が出ない。
文系の生徒さんであるが、二次試験も私大受験でも数学を使う。
この夏は課題の多い夏である。

この夏は、クラス指導もさることながら、個別指導が多い感じがしている。
だからがっつり生徒さんとお付き合いすることになる。
クラス指導だって、結局個別指導をしていることもあるのだけれど。

昨日は中三生のクラスの一つで、みんなで復習とばかりに、国語の語句の問題や文章題をちょっとずつみんなで解いてみた。
それがちょっと意外な一面も見えてきて、指導する側にとっても良かったが、いつもとは理解度が全く違うようで楽しかった。
充実感が互いに半端なかった。

最近、もともとの開業したころの思いを思い出している。
気持ちや目標。
開業してからいろいろあった。
いろんな人が現れた。
人間って、いろんな人がいるものだとつくづく教えてくれた。
非常勤とはいえ、勤めていてもいろんな人がいることは学んだ。
自分という人間についても。
でも、開業して、人って人なんだなあと思わされることが多かった。

こういうときに人はこういうことをするのか?ということをたくさん学ばせていただいた。
人の品性というものについても。

受験はなりふり構わずという面もある。でも意外にものを言うのは品性だったりする。

よく、

一点で落ちました・・・。

と言う人がいる。言わなければいいのになと思わされる。
一点で合格する人はすごいが、一点で落ちる人って、たった一点で入れてもらうことができなかった人である。
そのことの方が重大である。

その根本原因を忘れている。
受験というのは自分との闘いなのである。
親御さんにとっても親として成長させてもらえる重要な関門である。
どう見守り、どんな態度で接するか?
自分が不安だからと言って、子供にその不安をぶつけてしまわない自分になれるだろうか?
外的環境にばかり目が言って、その実問題は自分にあったということはないだろうか?
そして、闘いの時期にあってなお、品よく生きて行けるか?

大変な時にこそ人は見える。
それにその時に見せた姿って、人は覚えている。

本当に受験期に見事に乗り切った生徒のことっていつまでも覚えているものである。
親の姿も教師の姿も生徒は見ている。
みんなが大変な時に、自分の大変さに呑まれてしまう人かどうかを人は見ている。

受験一つだって、周りの協力なしには成し遂げられないものである。
協力してもらえるか?
必要以上に、この生徒にはしてやりたいと思わせる何かがあるか?

私自身がいろいろな人の世話になってきたし、どうして合格したの?というようなことばかりだったので、周りへの感謝は半端なくあるし、合格できなかった人も見てきているので(決して優越感とかではなくて。冷静な分析として。)、それなりに原因を思ってしまう。

意外に受験というのは本当に平等である。
もちろん、本当に難しい資格試験などは、お金がものを言うという面があることは認める。
しかし、お金だけではないとも思う。
それに乗り越えたことの多さだけ、その人には力がつくから、恵まれていることが恵まれていないことになることもあるだろう。

ここを乗り越えることができたら、とんでもなく素晴らしい人になるという課題を与えられるような人もいるだろう。
そういう課題って、自ら求めてもらえるものではない。
そういうところに身を置かれなければ乗り越えられないのである。

なんか勘違いしている人がいる。
win‐winでなくても大丈夫。自分さえ得したらよいと考えているような人は、大事なところで協力されなくなる。
誰かに嫌な思いをさせてでも自分の思いを通そうとする人は、どこかでコケる。
一見うまくいったかのような出来事の後に必ずコケる。

それにwinでなかった方の人は勝手に恵まれていく。
ボロカスに言われるだけ言われる方がいい、とは、人生の重要な場面で、尊敬している人に私が言われた言葉である。

何かで読んだが、ボロカスに言う人は何にも成長がなくて、ボロカスに言われる側は思い切り恵まれる。
そうなのである。
ずるいことをしたり、何かにつけて人生のショートカットをしようとしたり、自分だけ良くなるような要求をする人って、どの道沈んでいく。

勘違いしている。
それを正したくなるのは、ほんっと、教員根性だよなあ・・・、と反省している。
そこまで責任はとれない。
もう勝手にしていただくしかない。

が、我と自ら不幸の道へとまっしぐらに進もうとしている人の、傍で見ている私の痛さよ。
本当に痛い。
真逆だって。
そっちじゃないって・・・。
子どものためにならないって・・・。

あああ、あああ。
気にしているのは、私も思っている方面のことではなかった。
人に良くないことをさせてしまいそうな自分である。
いっとき甘いことをさせてしまったら、私の罪になるのである。
ここ数年の自分の妥協した罪を思ってしまう。

教師は妥協してはならない。
経営者としてなら別にいいかもしれない。
が、教師としては妥協してはならない。
塾とはいえ人を育てなければならない。
毅然として語らなければならない。

あああ、夏期講習まで、まだまだやることは山積している。
時間割を組む、テキストを選定するなどと言うような簡単なことではない。
お金を稼げばいいというようなレベルの問題でもない。

先日、テキスト会社さんの方と話していた。

夏期講習は稼ぎ時という一面もありますので・・・。ふふふ。

と笑われた。
この自明のことをおっしゃるときの、この、「ふふふ」の意味が私にはとってもよく伝わってきた。

先生、そっちはあまり考えておられないんでしょうけれど・・・。

という含みである。

いえいえ、そうですよ。経営者です。ビジネスですからね!

と言いたいところもあるが、相手の気持ちはよくわかる。

書いていてわかってきた。
私は誰にも良くないことを、それも受験に良くないことをさせたくないのである。受験にとって良くないことになる振る舞いをさせたくないのである。
そのジリジリが私を襲ってくるのである。

あああ、親御さんを教育しなければならない面もある。
それって、単純な甘えですよ・・・、と言わねばなるまい。

教師ならはっきりしなさい!
教師の仕事への使命感を外部から利用させるようなことをしてはならない。
私のスキルは上がっても、私の人間性や理念追求の方法は向上しても、相手に良くないことをさせてはならない。
でも、そっち側の人は、またそっち側で自分の思いがあるので、間隙を縫って、思い通りにしようとする人もいらっしゃる。それがどれほどご自分のお子さんにとって良くないことになるかを知らずに。

ここまで生きてきて思う。
時に根回しや、人間関係論、権力発動することも大事なこともある。
しかし、結局正攻法で、ちゃんとその場その場から逃げずに対応することがその後の人生を決めることになるのだ。
ちゃんと対面しない人は結局良い結果を生み出さないものである。
気持ちにしても、実質的なことにしても。

目に見えない力を軽視し過ぎる人がいる。
それは目に見えないものが大事だということがわかっていないからである。

とここまで書いて来て、私は私の感じていることに大いに気付くことができた。

言葉の力は偉大。
本当に言葉は武器である。
人に説明するときもそうだが、自分の気持ちや本当に考えていることに気付くためにも武器となる。
ちゃんと根拠を持って人に語るために。
教育理念を伝えていくために。

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