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悪口の意外な効用・・・。

もう嫌いで嫌いで仕方がない人を遠ざけるのに必死になってるこの2~3日。何気に家族だけではなく塾生も知っているという・・・。

もう逃げ切るのに必死。
いや私だけではなくそのお家の子どもたちの指導者が、半ば逃げたり子どもたちに思いを掛けてなんとか・・・、みたいに指導してきたいきさつも知っている。今の私にあなたたちを助けるだけの余裕はない。
かつては来るもの拒まず的に頑張っていたときもあったけれど、最近はまず在塾生の進路の確保を最重要視する。
今私には余分なことをしている余裕がない。
だいたい在塾生の夏期講習のコマを確保するだけでも必死になってる。
あちらも余裕がないから食い下がる食い下がる。

先日、辞めますという言葉を引き出した日、私はフェイスブックでちょっとばかり悪口を書いた。うちの生徒は私が、
私の今言っていることも悪口かもしれないけど・・・。
と言ったら、
いえ、悪口ではないです。事実ですから。
などと言ってくれる。
教室で起こったことを共に考え、こういう行動は良くないというのを見せているので、彼らの考え方は非常に健全である。

でも、私自身、合格する人を育てたい、と思っていながらも、私の考え方が純粋に傾きすぎて、それは世間とそぐわないものになっていないか?とほかの人に意見を求めることもある。
でも、みんな私が相談するようなことは
それはおかしい。
それはないんじゃない?
そういう人いるんだ。
そういう人って別の所でもやってるんじゃない?
などと言ってくれる。
どうも私の方が許容量が多いらしい。
挙句に、
あなたって優しいと思うわ。
とまで言われてしまった。
だから判断は間違っていないと思うけど、時に引き下がってくる人があまりに信念もっておかしなことをおっしゃると、
私、なんかおかしいのだろうか?
と考えてしまう。

そういう案件をお引き受けするのはお相手にも実は失礼である。
世の中で自分のしていることが通ると思われるようなことを許しては、それは教育としてそもそも良くない。

優しく受け入れる面と、これは違うと伝える面と両方必要であるが、時にはバッチリと表現しなければならない。

受験に合格するためにも、人の悪口は言わない。ウソをつかない、などと言うことも伝えている。
なぜか?
それは受験勉強中の頭がつじつま合わせのために混乱して、効率的ではないからである。そんなことしている暇があったらべんきょうしなければならない。

しかし、お辞めになるというお返事をいただいた朝、私はすぐさまフェイスブックでちょっとした悪口を書いた。みんないいね!をしてくださり、同じ教育方面でお働きになっていらっしゃる方には、同じような事例を教えていただいた。
でも、ちょっと悪口めいたことを書いただけで、私はその日一日次々と送られてくるお相手からのラインに優しく対応することができた。
これはもしかしたら使える・・・、と思った。
今まで生きてきて、初めて悪口の良さを思った。
悪口を言って、どこかでその人へのストレスを軽減できる。
だいたい私のその人から嫌な気分をわかっておられず、よく
先生は菩薩様のような人だから。
と表現してくれた。
他に何もないときなら菩薩様でもいられよう。
だから、今は受験の天王山である、夏期講習を控えているんだってば!
相手が菩薩さまだなんて、私なら怖くて怖くてビクビクするだろう。
いつも怒っている人の方がわかりやすくて付き合いやすい。
私なら私などいったい何を考えているのかわからない・・・、と思うだろう。
それに生徒たちは私の怖さを知っているので、絶対に親御さんと私なら先生の方が怖い、と表現する。
優しそうな顔して、これはダメ!ということに対しては絶対に許さない。それ以外は結構許す。
何でもかんでも禁止していたら、子どもたちは圧迫されて生きづらくなる。
許してあげる範囲は広げるけれど、人として生きて行くのに必要なことは外さない。それを受験を通して伝えているのである。

だから子どもたちにも変に信用があった。
うちのママは、ほんとうのことを言ったら怒らないから、うちのママに相談しよう。
学校で先生に叱られたことは普通子どもは親に話さないのに、お宅はお母さんに言ったんですねえ。
と言われたこともある。
本当にしんどいときにはママに相談、と思ってくれていた。
でも、同時に、ママはこれを外したら怒る、ということもしっかりわかっていて、人にどうするべきかということは理解していたようである。
とはいえ、子育て時代には反省も後悔もあり過ぎるほどあって、これは一生生きている間持ち続けていくだろうと思っている。
誰だって完璧な子育てなどできない。
ただ、極端に子どもたちを苦しめるようなことは言いたくない。
絶対に正しい答えがあるように思ったり、親の言うことを聞かせようとしたり(そもそも一個の意志を持った一人の人間同士である。)は良くないと思っている。
こうした方がいいだろうという方向に導くなら、親もそれ相当の工夫をして懇切丁寧に相手に伝わるような言葉を選び続けて子どもたちに届くようにしていかなければならない。

ちょっと愚痴なり悪口を言って、相手に優しくできるということもあるのだなあ、と初めて知った。
いつも直球ド・ストレートしか投げてこなかった私が、ちょっと生きやすさとしての変化球を投げることができるようになってきたのかもしれない。

その発見を昨日早速生徒に話した。
ああ、なるほど!という同じく発見の顔をした生徒の顔が忘れられない。

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