見出し画像

共通テスト数学について

難関大を受験するわけではない生徒たちに共通テストの演習をさせている。
正直苦戦という感じ。
今年は例年よりも細分化して教えてみようと思っている。
とはいえ、数学はやはり思考力が大事なので、自分で考えさせることと、でも考えてわからないときにはさっさと解法を求めて、わかったうえで演習した方がよい場合もある。

昨日は、本試と追試の図形問題に取り組んでいた。
メネラウスの定理、方べきの定理、そして余弦定理。
どれも基本的な解き方を重ねて説いていくものではあるが、とはいえ、いきなり出されて解くとなったら、そうそう簡単ではない。
そもそも共通テストの数学って、ちゃんと誘導してくれているので、解き方のヒントは満載なのだけれど、それとて、解く側にとっては余計なおせっかいめいて、それを言われたから余計にややこしくなった・・・、と思わされることもある。

解説を読んでいて、まどろっこしいなと思わされることもある。
自分で解いていると、ここはショートカットしようと思うこともあり、そんなん自明の理やんか・・・、と思って、なぜそこを解説しようとされるのか?と考えてしまうこともある。
まあ、数学がわからない人にも、口頭でなく教えるとなるとこういう書き方になるのだなと思っている。

ここは自分流に違う解説をしてもいいだろう。
これが国語や英語なら、勝手にやらせていただくが、まだ数学はそこまで講師として、自分の裁量を信じてはいない。
が、そろそろいいかな?と思わされる問題もある。

昔図形の問題はあまり好きではないと思っていた。
でも、図形の問題を代数で処理するときの喜びったらない。

かつて数Ⅲ数学の教養講座に出席したとき、数学の専門家である先生が、

ああ、図形で乗り切ってはいけないな。代数でちゃんと証明しなくては・・・。

とおっしゃったことがあり、それ以降、ちゃんと代数で、というのが大事なのだと思っている。とはいえ、以前から数字的に合わないものを信じていたわけではない。

ただ、最終的には図形的感覚ではなくて、代数で証明しなければならないのだということはいつも思っていることである。

共通テストの問題を解いていると、旧センター試験よりも、どうも感覚的なセンスも問われつつ、それを代数的に使ってね・・・、みたいな問題になっているように思われる。というよりも、演習をしてきてね・・・、ということなのだろうか?

全般的に、考える力も必要。処理能力も求められる。どちらの能力も、という感じがする。
超難関大の数学は、時に見たなり、ああ、こうだなと思わされることがあるが、ちょっとそれに似たことを、ひらめきをかな?求められているような気もする。

というか、世の中どんどん、なんでも求められるようになってきたような気がする。
棲み分けがあまりなくなったような。
かつては、もっと何か一つに秀でていればよかった。
オタクでもよかった。
でも、最近って、何か一つに秀でていても許されない感じ。
同じ教科の中でも、あれこれいろんな能力を試されるというような。

かつてのセンター試験のほうがまだよかったとおっしゃった予備校の先生がおられた。
そのおっしゃることの意味がよくわかる。
受験生に求められることが多すぎるのである。
せめて共通テスト、つまりは国公立の一次試験としての性質の試験くらい、対策が取れやすいものにしておいてやらないと、大学の進学率が高くなっている一方で、二極分化が進みそうで怖い。

かつて週休二日制が始まったころ、まだうちの子どもたちは、上の子が小学校に上がったところだったが、それにうちは夫が土日お休みだったけれど、これが親御さんがお休みではないお家はどうなるのだろうか?と思ったものだった。
土曜日がお休みになって、スポーツ少年団に行けたり、あるいは塾に行けたりすることができる子ならいい。
それができないこの場合、野放しにならないか心配したものだった。

アメリカと日本は違う。
かつて何の評論だったかで読んだが、日本人の性質から、安定を保障されたときに、日本人は安心していい仕事ができるという指摘があった。

若いころ、私は思い切り能力主義だった。
でも、教師として働き、生徒のことを思い、また親になってみて子育ての実態を思い始めた時には、これはちょっと違うのではないか?と思い始めた。
少なくとも私たちが子供の頃は、それなりに学校教育がもっと機能していたと思う。
先生のおっしゃることもちゃんと聞いていた。
いつのころからだろうか?先生方に要求がましくなり、モンスターペアレンツという言葉まで生まれるようになったのは・・・?

機能的にも、先生を敬っておいた方が得策だと思う。
教える側として、要求がましいことを言われてそれが効果的に働くことはあまりない。
自由度が高ければ、勝手にその結果から先生方は反省する。
もちろんサラリーマン教師も存在するし、そうでなければ潰れるから、生存戦略的にそうあるのも認めざるを得ない。
が、そもそも先生を職業に選ぶ人って、たいてい志が高いものではないだろうか?

預ける側としては、できれば先生方に感情的になってほしくはない。
でも、そもそもストレスフルな先生方に、何かを要求するということがどれほど非効率的なことだろうか?

そもそも受験がどうであるか?ということが学校教育にも相当に影響すると思う。
そのことが生徒の生活を決める面もあるということは否めない事実である。
たくさんのことが求められる。
だから、親御さんもあたふたしなければならなくなる。
よくわからないから塾に行かせる。
そして学校にも求める。

どうも親も子も先生もストレスフルな状態を作り出しているような気がする。

受験くらい、シンプルでもいい。
もちろん、詰込み型の教育が、思考力を弱めているというのはわかる。
それに私は詰込みよりも思考力を問われる方が好きである。
でも、それとこれとは違って、日本人はある種の型があると安心する民族だと思う。
共通テストには、型があって、あまり型がないような気がする。
受験生の負担ばかり大きくなっていて、どういう方向に行けば得点できるかという目安が見えにくい感じがする。
誰かがついていなければ対策が取りにくい。

ますます私塾の役割が大きくなるだろう。
自宅学習が、という説もあるが、人相手の対面で指導を受けることほど効率的なことはない。
なぜなら勉強というのは、そういうものだから。
アプリで計測したり、音読できるものも増えてきた。
でも、所詮機械相手のことって、よほど意志が強くなければそうそう続くものではない。

そういう、古き良き時代・・・、などと言うことを考えるタイプではないのだけれど、学校教育に関してだけは、そして受験についてだけはちょっと考えてしまう。

それに、ある弁護士先生がある講義の中で受講生に話しておられたのだけれど、高校までは詰込みでいい。思考力など大学に入ってからでいいんだ、とおっしゃっていて、何かに思考力で乗り切るタイプの私には耳が痛かった。
でも、最近、そのことがやけに納得させられることとして心に沁みてくる。
もっと本を読んで、人ならではの思考力、洞察力をもてるようになりたい。
まずはわからないならわからないなりに難しい本に挑戦する力なども必要ではないだろうか?それももしかしたら詰込みになるのかもしれないが。

とりとめもないことを書いてしまった。
数学の演習をしていて、なかなか理解が進まない生徒を見ていて思った。
正直昨日話した生徒は、先が見えなくて暗ーくなっていた。
確かに気持ちはわかる。

それをいかにシンプルに指導し、少しでも、わずかな光でも向こうに見えるようにするのが、この夏の私たちの仕事なのだなあ・・・、と考えている。

さてさて今日は面談が二つ。
夏の過ごし方を考えなければならない。
ちょっと気が重くもあり、でもここで私が弱気になってはいけないので、ちゃんとしっかり伝えるべきことを伝えなくてはならない。
現実を伝えるのも仕事である。

もしもサポートしていただけましたら、そのお金は文章を書いて人の役に立つための経験に使います。よろしくお願いいたします。この文章はサポートについて何も知らなかった私に、知らないうちにサポートしてくださった方のおかげで書いています。