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嫌いであることを認めてみた。

 嫌いであることを、認めず、なんとか理解することで乗り越えようとしていた私。

 私にとって、きちんとした根拠もないのに、嫌う、というのは至難の業だ。

 でも、先日、二人の人を切った。一人は、私は、ああ、うまく騙されていたんだなあ、という人。そして、もう一人は、人の像を勝手に作り上げて、断定的にものを語る人。

 私、この二人のことが、嫌いなんだと気づいた。それもかなり嫌い。一人の狡いやり方。もう一人の、私には考えられない男女の関係。別に私の知らないところでやってる分には知らない。でも、明らかに誰かを泣かせるようなことを公然としていて、それなのに、正当な立場にいる人のことを批判している。この人、価値観が違うな、と思っていた。でも、価値観が違うからこそ、私が全然あったことのない人に対応するときに意見を求めていた。

 ある日、突然、あ、嫌い、ということは、こういうことなんだ、と思った。私の器が小さかろうと、価値観が狭かろうと(あまりそうとも思わないけど。)、嫌いなものは嫌いなんだとはっきり認めることにした。

 その人の心理状態や成育歴は知らない。でも、女性をモノみたいに扱って、それを、当の女性のいる場で話している男性も私は嫌いだ。少なくともマナー違反だ。私の前ではやめてほしい。

 ということで、嫌いは嫌いと認めることにした。そうして、しばらく距離を置く。でも、距離を置いた状態がしばらくなのか、ずーっと続くのか、あるいは、個々の部分とだけはお付き合いするのかはわからない。

 でも、生徒でもない、大人との関係で、なんで私が、その人の成育歴や、今現在の状況を考えて、騙されたことを許したり、あるいは断定的に、あなたは○○よ!みたいに上から目線で、何の根拠もなく言われる筋合いもないわけで・・・。

 騙された、と言っても、トータルでは、元を取っているので、ある意味おつりが来るくらいなので、それはそれでよしとすることにして、でも、世間には、本当にいろんな人がいるんだなあ、と勉強になった。

 とりあえず、私は、自分の中の嫌いを認めることにした。認めた後で、それを表明するか、あるいは距離を置くか、でも、何か学びなどがあって、ちょっと付き合ってみるかは、考える。

 しばらく、自分の中の嫌いを認める練習をしてみたいと思う。

 それが私の中で、今、一番欠けている部分だと思うから。

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