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《動植綵絵》が今見られる☝️ 伊藤若冲に影響を与えた10人のアーティストをサクッと紹介

Himashunです。

皆さんは日本のアーティストの最高峰と言うと何を思い浮かべるでしょうか?

仏師・運慶や、画聖・雪舟とか、画狂老人・北斎がいますね。

近現代だと横山大観草間彌生村上隆の名が挙がるでしょう。

ちなみに国宝の数では雪舟さんが一位です。

が、やはりアノ方は人気ナンバーワンでしょうね。

そう、伊藤若冲です。

百花繚乱の江戸絵画、その中から生まれた最も華やかな大輪の花と言っていいでしょう。

若冲を見ずして日本美術を語る勿れ。

そうそう。その若冲アートの最高峰である国宝《動植綵絵》が今見られるんですよ。

しかもゆっくりと、時間をかけて。

それが皇居三の丸尚蔵館で開催中の「皇室のみやびー受け継ぐ美ー」展です。


会期は3つに分かれています。

そのなかで《動植綵絵》33幅の内、4幅づつが出展されます。

時間指定なので、何時間も待つということはありません。

以前東京都美術館で開催された若冲展は入場に最大5時間待ちでしたからね。

割にこの展覧会は穴場ながら、若冲の最高傑作を見られるお得さがありそうです。

私も《動植綵絵》、まだ見たことがないので行ってみる予定です。

是非この機会に訪れてみてください。


ところで、名実ともに日本美術の最高峰・若冲さん。

どうやってあのような異次元ワールドを生み出したか、知りたくないですか?

一体、彼のアートを形作る要素は何なのでしょうか?

それを知るには、若冲の学んだ先人たちを知るのが一番。

そう、かの若冲にも、師や影響を受けたアーティストがいるのです。

今回はそれを紹介していきたいと思います。

探せばけっこう膨大な数になるかなと。

なので今回は10人、アーティストを厳選して解説いたします。

内訳は日本から4人、中国から5人、朝鮮から1人となっています。

様々なスタイルをもった、アクの強いアーティストたちです。

それではサクッと紹介していきましょう。


1、大岡春卜に絵のイロハを学ぶ

右:大岡春卜『鳥羽絵三国志』より
左:伊藤若冲《踏歌図》

大坂の狩野派絵師・大岡春卜(おおおかしゅんぼく)に若冲は若いころ師事していたと伝えられています。

春卜は形式化した狩野派に新風を送り込んだ人。

特に中国の明清の新しいアートを多くの画人に伝えました。

その際手段として用いたのが「版本(はんぽん)」

要するに印刷された和本です。

彼は風景画や人物画、楼閣図、動物画などの新しいモチーフをそこに吹き込みました。

版本は肉筆画と違って、読み回しができるしたくさん複製できるから、たくさんの人に影響を与えます

若冲は春卜にいろいろな面で影響を受けていると思われます。

中でも右の画像に注目。春卜がイラストを手掛けた版本です。

強調された人物の画風は「鳥羽絵」と呼ばれ、伝統的なコミカルアート。

特に若冲は人物画の身振りや手ぶりを描く際に参考にしたみたいです。

あとは若冲の好きな鶏の絵、ありますよね。

あれも個人的には、誇張されたポージングが鳥羽絵の影響を感じさせます。

2、沈南蘋に凸った色彩を学ぶ

右:沈南蘋《丹鳳朝陽図》
左:伊藤若冲《孔雀鳳凰図》左図

若冲のアートに欠かせないのは、鮮やかな色彩ですね。

有名な話、若冲作品の絵具は相当な高級品が用いられています。

だから際立った色だし、劣化もしにくいのです。

でも配色はどうでしょう、誰の影響を受けたのでしょう?

その答えとなるのが、江戸中期に一大ムーブメントを起こしたある人物。

来舶中国人の沈南蘋(しんなんぴん)です。

右の画像、《丹鳳朝陽図》を見てみてください。

クジャクのような見た目の鳥は、伝説上の生き物・鳳凰。

マリンブルーや翡翠色を用いた極彩色が斬新ですね。

この色使いは当時日本にいた多くのアーティストが驚かされ、模倣しました

一方若冲の孔雀図はというと。

孔雀を白色にするというアイデアも中々ながら、派手な色合いは羽根の一部分や牡丹の紅にとどめています。

一方松や岩の描き方は伝統に則ったものになっています。

つまり、南蘋の色彩法を独自のものへと昇華し、新奇なものと従来のものを上手く調和させているのです。

凸った色彩は、若冲に至ってニュースタンダードになったのですね。


3、河村若芝に奇抜な発想を学ぶ

右:河村若芝《十八羅漢図》より
左:伊藤若冲《十六羅漢図》より

若冲の先輩に、彼より一昔前の長崎で、河村若芝(かわむらじゃくし)というマルチアーティストがおりました。

若芝は刀の鍔などの刀装具をメインに手掛けながらも、絵描き、黄檗禅の絵仏師などをこなした人。

その絵はちょっとおどろおどろしさ、奇抜さのある変わったものでした。

それゆえ、若芝は若冲の属する「奇想の系譜」の原点ともいわれます。

右の羅漢さんの絵をご覧ください。

ぎょろりとした眼、褐色の肌、長い爪、行われる謎の儀式など、これでもかというほど異国情緒に溢れています。

こういった絵の土壌になったのは黄檗という江戸初期に中国から来たニュームーブメントでした。

若冲自身は臨済禅の相国寺と縁が深い人。

でも晩年は黄檗宗の石峰寺に住み、石の羅漢さんの下絵を描き続けました。

若冲は羅漢さんに親しみをもって何度か、それを題材にした作品を描いています。

彼は若芝のアートが持つ奇抜さという性根をよく理解していました。

でも真似はせず、にんまりとする「怪しいおじさん」風な羅漢さんを描いたのです。


4、俵屋宗達に優れたデザイン性を学ぶ

右:俵屋宗達《犬図》
左:伊藤若冲《百犬図》

ミュシャやロートレックのポスター。

スタイリッシュな曲線とお洒落な男女の姿。

皆さん真似して描いてみたくなった体験がおありではないでしょうか?

それが「デザイン」の魔力

分かりやすい、模倣しやすい、伝えやすい、それがデザインの根本ではないでしょうか。

日本にもかつて優れたデザイナー集団がいました。

それが、琳派というやつです。

琳派の先達・俵屋宗達は有名ですね。

彼は犬っころ一つ描くのにも妥協はしません。

右の絵を見ての通り、極限までに無駄を省いた、シンプルな犬です。

シンプル、それが本当に難しい。

宗達が用いた画法の一つに「没骨法(もっこつほう)」があります。

輪郭線を用いないという、けっこう手間のかかる描き方です。

没骨法もシンプルに迫るための宗達なりのアンサー。

琳派は京都で若冲生誕の100年前に誕生した流派、彼が影響を受けないはずがありません

若冲が目指したのも、宗達と同じシンプルデザインだったはず。

しかし同じことをするのを嫌う彼は、そのシンプルさを増幅させ、≪百犬図≫に仕立て上げました。

ちなみにこの絵を若冲が描いたのは85歳、死の寸前でした。

あまりにやんちゃなデザイナーです。


5、牧谿に筆捌きの妙を学ぶ

右:伊藤若冲《叭々鳥図》
左:牧谿《叭々鳥図》

若冲の見逃せない重要な要素があります。

それは彼が美術史上最もユニークな「水墨画家」であったこと

若冲ほど極彩色を得意としたアーティストが、実はモノクロームの世界でも超一流。

つまり彩色画と水墨画の二刀流でありました。

では水墨画で模範としたのは誰だったかと言うと。

日本人が「和尚」と親しんで止まない南宋時代の画家・牧谿です。

牧谿の作品は真作、偽作、模作がごちゃまぜになりつつ、京都ではかなりの数が見ることができたでしょう。

その作品はささっと描いてみせたような軽いものもあれば、壮大なランドスケープを描いた大作もあります。

共通して言えるのは、筆捌きの入神の域に入る巧みさ。

そして墨の濃淡が持つ可能性を無限大にまで高めていることです。

でも何より日本人好みの、侘びた風情がいちばんの良さ。

若冲はそういった牧谿の「侘び」には敢えて目を向けません

試しに、画像の2つの《叭々鳥図》を見比べてみましょう。

牧谿のものは、素早く描いたようでありながら、今にも動き出しそうな躍動感があります。

絵を描く、というよりは鳥の「気」を映し取ったって感じです。

一方若冲のものはというと。

それはまるで垂直に落下する黒い物体のよう。

でも目とくちばしがついているから鳥だと分かります。

また牧谿のパロディとしての魅力もあります。

二番煎じに徹しつつ、さっと笑いを取りに行ってますね。

若冲は「和尚」を心から尊敬しつつも、その興味はまた別のところにあったようです。


6、李迪に古典の写実を学ぶ

右:李迪《紅白芙蓉図》右図
左:伊藤若冲 動植綵絵より《芙蓉双鶏図》部分

NHKのドラマ「ライジング若冲」、だいぶ前の放送でしたが、けっこう私の印象に残っています。

特に若冲が必死に鶏を写生するあまり、ほとんど周りに目が入っていない様。

演者の中村七之助の上手さもあって、若冲ってこんな感じだったんだろうなぁとしみじみ。

そんな若冲の写生主義ですが、もちろんそれは彼の迫真のリアリズムに直結しています。

ただ当時は、「粉本」と呼ばれるお手本をひたすら写すのが絵画上達の一番の努力とされていました。

写実は全く重視されていなかったのです。

そんな中、若冲に写生の魔力を教えたアートがありました。

京都の寺社や旧家の所持する、中国・宋代のリアリズム美術です。

先ほどの牧谿が「写意」、気や精神性を描こうとするアーティスト。

一方「写実」、モノをありのままに描こうとする画家の代表格が李迪(りてき)でした。

若冲は写意よりも写実に興味がありましたし、絵面の色彩や構図の面白さを追求することを是としていました。

右の画像は室町将軍の宝物としても知られる国宝の李迪画《紅白芙蓉図》の片方。

芙蓉の花弁の微妙に透ける感じや、ふわっとした柔らかさが本物同然に見ることができますね。

若冲はこういった真に迫るアートに最も憧憬を覚えたのでした。

しかし真似で終わるのが嫌いな若冲のこと。

左図の鶏の脇に咲く芙蓉はどうなっているのかというと。

花弁は一重であり、かなり強い斑入りになっています。

また葉っぱはグラデーションが入り、ところどころ穴が開いています。

リアル、でもありながら幻想的で奇抜な芙蓉を描くことに成功していると言えるでしょう。

若冲流の写実は、先ほどの河村若芝譲りの新奇さが加わることで、また新たな段階に達したと言える気がします。


7、王冕に南画の荒々しさを学ぶ

右:王冕《南枝春梅図》
左:伊藤若冲 動植綵絵より《月梅図》

王冕(おうべん)という元の時代のアーティストがいます。

官僚になりたかったものの、科挙には落第を続け、結局画家を志した人でした。

当時は梅の絵ばかりを専門に描く画家がいたそうですが、その中でも現代ではトップに君臨する評価を受けています。

梅という画題は割に描きやすいです。

直線を引けば、若い枝に見えるし、小さな丸を描けばツボミに見える。

逆に言えば梅描きにはよほどの画趣とテクニックが試される訳です。

そんな梅を描く専門家の中で最も上手いのですから、王冕という人はよっぽど尊敬されました。

日本にもやはり菅井梅管(すがいばいかん)という梅の絵の専門家がいましたが、きっと王冕の強い影響があったはずです。

若冲も梅の絵はいくつか残しており、そのスタイルは王冕を踏襲した南画風のものとなっています。

しかし若冲は本来王冕の梅にあった荒々しさのイメージは残しつつ、そこに彩色画ならではの迫真性を加えました。

また、画面いっぱいに梅の枝を増殖させることで、まるで白昼夢を見ているかのような幻想性も付与します。

ところどころ見られる枝についた苔の鮮やかなモスグリーンもいいアクセントになっていますね。

ここで覚えておいてほしいことは、本来若冲の好む写実とは逆、写意の画家のDNAが彼の中にも入っているということです。


8、文正に均整の美を学ぶ

右:文正《鳴鶴図》
左:伊藤若冲《白鶴図》

さて、ここからは皆さんご存知の若冲が模写した絵が2つ続きます。

まずは中国・明の文正から。

このアーティストはほぼ無名で、情報としてもほとんど現代に伝わっていません。

それでも、残された鶴を描いた双幅からは古典的な美を伺うことができます。

特に右幅の、空を舞う鶴。

装飾的なところもありながら、その明快で鶴の美しさを体現するかのようなフォルムに惹かれます。

こういった整った美に惹かれたのがまだ修行時代の若冲。

狩野派の模倣学習に限界を感じ、中国の宋元明の絵にスポットライトを当て始めた時期のものです。

では、若冲のオリジナリティがないのかというと、そうでもありません。

完全に絵を写しとる「臨書」ではなく、とりわけ背景に改変があります。

左幅に見られる松に関しては狩野派学習の賜物ですね。

ただ右幅の白波部分の描写は定型的な表現から脱しており、若冲イズムの萌芽が見られるでしょう。

全体としても、文正の絵にある荘重さを良しとせず、面白い絵面を模索する様が伺えます。


9、伝・李公鱗に動物のユーモアを学ぶ

右:伝李公鱗《虎図》
左:伊藤若冲《虎図》

若冲のアイコンの一種ともなっている虎の絵。

元ネタがありまして。

それが逸名の画家が描いた《虎図》。

作者は朝鮮王朝の画家とも明代の画家とも言われます。

一応中国・北宋の李公鱗の名が冠されていますが、箔付けのためでしょうか。

年季がありまして、そこから若冲40歳の作と分かります。

彼が亡くなったのは85歳ですから、その半分以下の年齢で描いたもの。

大分虎自体は丁寧に描かれていますが、本図の持つ陰影から来る立体感までは表せなかったよう。

ただそののっぺりした描き方が逆に可愛らしさや絵への愛着を生んでいるようなのは、怪我の功名でしょうか。

この《虎図》、動物描きの若冲にとっては原点とも言えるような作品なのではないかと思います。

この絵で出そうとして出し切れなかった「ユーモア」「迫真性」「新奇さ」

その後の彼のメルクマール(中間目標)となって、絶えず振り返られてきたからだと感じるからです。

若冲はこの絵を超えて見せたかった、そんな思いがHimashun的には見て取れます。


10、伝・鳥羽僧正に漫画の精髄を学ぶ

上:伊藤若冲《鶏図押絵貼屏風》左隻
下:伝鳥羽僧正《鳥獣戯画》より

ここからは大胆仮説。片耳で聞いてください。

若冲のオリジナリティ

そこには色々な要素が絡み合っています。

でも敢えて今回はそこから一つだけ抽出して、強調してみたいです。

それは何かというと、「戯画」としての要素。

この項目の一番最初に大岡春卜の鳥羽絵の版本を紹介しましたね。

この鳥羽絵の原点って何だかご存知ですか?

皆さんもご存知のアレです。

そう、《鳥獣戯画》なんです。

鳥羽僧正と伝わる人物がその《鳥獣戯画》を手掛け、広まったから、鳥羽絵と言うわけです。

この鳥羽絵、けっこう色々なアーティストが影響を受けてます

例えば、葛飾北斎

《北斎漫画》における、不思議なポージングの人体が印象的ですね。

あれも北斎が鳥羽絵の影響を受けていた証左です。

あとは、幕末維新期の河鍋暁斎も。

カエルに戦争ごっこをやらせる絵は有名です。

あれもまんま《鳥獣戯画》ですよね。

鳥羽絵を面白がり、自分の作風に笑いを取り入れたアーティストは枚挙にいとまがありません。

ましてや、師匠が鳥羽絵の版本を作っていた若冲のこと。

琳派も、中国画も、狩野派も、南蘋派も、南画も、すべて貪欲に取り込んだ彼が鳥羽絵を参考にしないはずがありません

ではどういうところを鳥羽絵から学んだか。

《鳥獣戯画》で展開されるのは「ディープな笑い」です。

笑え‼︎と言わんばかりのおかしみを狙いに行った画風がそこにはあります。

これは意図された笑い、つまりディープなのです。

若冲は一方で笑いというものを鳥羽絵から学びましたが、それを鑑賞者に強制しません

代わりにデフォルメされたおおげさな線描があります。

歌舞伎役者のように見栄を切るポージングがあります。

そしてそれをする動物たちの如何にも真面目そうな表情。

私はこれをジワる笑い、「ソフトな笑い」と呼んでおきます。

若冲は天然で笑いを取るアーティストなのです。


ごめんなさい、さくっと解説するつもりが長くなってしまいました。

こうしてみると、若冲は中国絵画の影響を相当に受けながらも、常に自分のオリジナリティを求めていました

その味付けとなるのが、鳥羽絵や琳派、南蘋派といった日本の流派だったといえます。

ぜひ今度若冲作品と対峙するときには、Himashunのやつ、こんなこと言ってたなと思い返していただければ幸いです。

皆さんの若冲LOVEが深まることを願いまして。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

以上、Himashunでした。


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