アートと味噌汁の関係
私は密かに味噌汁とアートの存在はイコールと言えるんじゃないかと勝手に仮説を立てている。
味噌汁は日本人のソウルフードであり大昔から飲まれていて、一日の食卓に無ければならないものの様な存在感を放っている。
味噌汁はあの小さなお椀の中に豊富な栄養素を詰め込んで夏バテも防止しうる、おまけに土井義晴先生も一汁一菜やお味噌汁について話しているときた。(すみません、土井先生リスペクトなもので。。(照))
たまに味噌汁を丸一日飲まない日があるけどそんな日は何故かいつも調子が上がらないし、余計なお菓子をもりもり食べてしまう事がある。でも、味噌汁を一日に2~3杯飲むようになると何故か満足感が得られてお菓子の量が減った経験がある。
そう、全体的に調子を整えてくれて腹の底からその日のパワーを底上げしてくれる感覚があるのです。
で、何でアートとイコールなのかというと、アートも日常に無くてはならない存在だと思っているからです。味噌汁を飲まないと腹に力が入らない、アートに触れないと腹に力が入らない。力が入らないというか、なんだか日々がパッとしない。。(個人的所感)
味噌汁を作る工程も作品作りの工程に似ていると思う。昆布や鰹節、いりこを使って大きな鍋に出汁を取る。この出汁の存在は作家の持っているアイデアや制作の動機などにあたる。そしてその豊穣のアイデアの海の中に無数の野菜や時には魚や肉をぶっこむ。素材の切り刻みかたはどんな作品(味噌汁)のイメージを描いているかによって変化する。短冊切りなのか、半月切りなのか、それともいちょう切りか?
そしてくつくつと煮て(もくもくと作業し)、灰汁を取り除いたりし(余計な所をカットし)、ころあいをみてお味噌をとく。
それだと、煮ものだとか他の料理でも言えるんじゃないの?という声もあがってくるかと思うのですが、決め手はお味噌です。ゆっくりと時間をかけて発酵させた味噌がお鍋の中に注ぎこまれていくように、作品の中にその作家の熟成発酵された”愛”が注ぎこまれていくのです!
このお味噌がないと輪郭がぼやけたただのスープ(作品)になってしまうが故に、あまり心に残らないものとなってしまう。
”愛”という言葉を使うのにいささか抵抗があって思わず声が小さくなってしまうのだけど。。(もごもご)ここは声を大にして言おう。出汁取る以上に熟成された並々ならぬ愛が投入されるのです!ぱふぱふ
そしてここで述べているアートとは勿論、絵や彫刻や人の手を介して作られる作品の事も述べていますが、掃除や料理、洗濯のたたみかたやコピーの取り方に至る日常の行為までもアート作品を作る行為とみなして話しています。やはりどんな行為にもお味噌の様なあげまん的な、松岡修造的な愛というスパイスが入っているとなんだか心がほわーんとなるのです。
だから、毎日必要。
一日に一回はそういった物に触れると元気が出ますよね。
という仮説を妄想している今日この頃でした。今日はお味噌汁食べましたよ♪