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一人で食事の虚しさと空しさ

大好物は生魚である。お寿司にお刺身そしてお誕生日の時に家で食べていた手巻き寿司。 母親は自分が生魚が大好物なのを知っていたので主食にならなくても小鉢感覚でよくお刺身を買ってきてくれた。自分にとって生魚は特別であったが珍しいものではなかった。 

でも、最近この大好物の生魚を食べてもワクワクしなくなった。ほんの一昨日のこと、タイの熟成とハマチとイサキのお刺身を食べた。 魚を丸で頂いたので下処理をし、数日間寝かせた手間暇かけた魚である。
けれども、味気なく何だか虚しさが浮かび上がった。はまちを食べた時思わず吐き出してしまった。 ただ、まずかっただけ ハズレの魚であったと思いたいが、それよりもこの虚しさが心を大きく覆い被さってしまったのである。

美味しいものを美味しいうちに食べるとこが生きる喜びの一つでありたい。そう心がけた日々の中で、一年前ぐらいから一人暮らしを始め自炊をし、食事することで自分自身の食の心を毎日満たしていた。 はじめは楽しかった。スマホで食べたいレシピを見つけてうまく作れた時は食で自分自身を満たしていくことができるのだなと実感することができた。まだレシピを見ながらだけど自分が食べたいものを自分で作れる喜びは今もあり続ける。 

だが、だがである。お気に入りのお皿に盛り付け、ご飯茶碗、お味噌汁にセットする。いただきますとともにお箸で食べ物を口に運ぶ 口の中でのとろけるうまさ よし今日もうまくいった。もう少し、生姜入れても美味しくなるなと思考しながら噛み締める。 四口目、五口目になると食の心に満たしきれない空間が浮かびあっがてくる。 空しさである。

今までは外食でしか一人でご飯を食べることがほぼなかった。 それが一人暮らしすることによって家でも一人で食べるようになって時間が経過し心にも変化が起きているのだろう。

いろんなものや事柄は人と会話するための手段なんだろうと最近より深く実感するようになった。人が流行を追い求めたり、SNSで写真や動画をアップロードするのもそれ自体を楽しんでいるのもあるだろうけど行く着くさきというか結局のところは人とのつながりを求めているのだなぁと 全ては人との会話のきっかけとなる事柄に過ぎないのかと 今すぐにその事柄で繋がったり、会話が弾むとは限らない 昔懐かしで話が盛り上がることもあるだろう。 最近のツールやコンテンツではシェアボタンが必ずある。 今までの自分は誰にシェアするん 自分が好きやったらそれでいいやんと本気で思っていたのである。 自分の世界で深くものと触れ合うこと没頭が大好きである。しかし、それを現実化し、目の前の景色を変えていくには共有が必要になってくるのだと今更ながら感じることが多くなった。

もう一人は飽きたのだ。一人行動は好きであったが、それは実家暮らしで待っているまたは待つ人がいるから外の世界へ一人でも平気なんだったなぁと家以外の居場所を求めることもなかったのだなぁと 

くせのうた(星野源)の『寂しいと叫ぶには僕はあまりにくだらない』の歌詞が今日も頭の中に彷徨っている。


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