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誰かに聞くということ

ふと思い返すと昔から私は誰かに質問するのが苦手だった。いや今も苦手である。

なぜなら「どこが分からないのか」という要素を明確にした上で初めて他人に聞かなくてはならないという強迫観念にかられていたのだろう。背景には小学生時代の嫌な記憶があるのだと思うが。

例えば数学ⅡBで出てきた不定積分の公式1つ取っても、

なぜx^2の積分がx^3/3になるのか、またなぜ積分定数cが発生するのか…などなど。

”教科書に証明が載っているけど意味がよく分からない!てか全部分からない!でも分からない部分を絞らないといけないし、これじゃあ先生に聞けないなぁ…”

と、まぁこんな調子で頭の中では考えていた、典型的な「どこが分からないかが分からない」ような学生だった。

周囲の大人は、そんな私を見て「恥ずかしがり」だの「プライドが高い」だの憶測を投げかけるが、そんなものは毛頭なかった。質問するときは、ただ他人に対しての申し訳なさしかないのであった。私のようなバカが下らない質問をしてはいけない、そんな思いで勉強していた。

おそらくこの強迫観念があったから、数学が伸び悩んでしまったのかなと思う。結局外からの情報をあまりインプットしなかったせいで数学のあまりに抽象的な世界に、高校生の私はついていけなくなってしまったのだ。それがテストの点数にも如実に現れたのだった。

最終的に私は文転し、浪人生以降一切数学に触れてないので数学ができるようになる方法は知らない。しかし1つ試してみるのであれば、素直に先生に質問し先生の考えを共有してみることだ。数学の先生も一数学者である。そのため、その数学者の考えや世界観を知るところから始めてみると何か発見を得て、得意になるきっかけを得られるかもしれない。数学の先生に聞きにくいのであれば理科の先生でも良いかもしれない。おそらく、違う視点から数学の世界観を語ってくれるのではと思う。

こんな私から敢えてアドバイスするなら、恥とか強迫観念とか自分が分からないと感じたことを馬鹿にする友人とか捨てて、どんなクソみたいな質問でもするべきだと言いたい。(もちろん教員となったらどんな些細な質問でも受け付ける姿勢は生徒に見せていきたい。)より大きい報酬を得るなら、自分にとってのマイナス要素は犠牲になっても致し方ない部分はあると思う。私の場合、その犠牲を払うことを躊躇してしまったのだ。その点では少し後悔の念もある。

とはいえ一文系学生として地理学を専攻している今日、具体的な事象で微積や極限などの数学的な要素が関わっているのをみて、”ナルホドな〜”と思うことが増えた。高校の時の悩みが5年越しくらいに解決されつつある。あの頃の私はきっと、

”数学の公式がどこでどのように使われているか”

が分からなかったのだろう。

ある意味数学や理科をやっていて良かった面もある。


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