見出し画像

【ふるさとを語る】『晩成社展』十勝開拓の歴史を辿る その3 ~産業への挑戦~【歴史シリーズ】

🟥はじめに

その2はこちら

皆さんご機嫌よう☺️。地味に毎日投稿継続中です☺️。

今回はその3~産業への挑戦~をお送り致します。開拓事業を軌道に乗せるための、晩成社の不断の努力の軌跡をお届け致します。

よろしければ、お付き合いください🙇‍♂️。


🟥『晩成社展』の様子 その3 ~産業への挑戦~

※写真撮影の許可をいただいております。

🔴牛肉店経営 ~函館での遠隔地販売~

1893年(明治26年)、土地の申請の許可を受ける事が出来た晩成社は、いよいよ「商売」を始めます。

その「商売」は広い範囲で行ったようで、函館での牛肉店経営や、北海道内に留まらず東京でもバターを販売していたようです。

しかし、当時は今のように道路が整備されておらず、当然ながら自動車もありません。非常にコストがかかるので、事業は思うように進みませんでした。

悪戦苦闘の日々を伺い知ることの出来る、貴重な史料の数々をご覧ください🙇‍♀️。

晩成社の当緑(とうべり)農場。十勝の沿岸部(現在の大樹町周辺)にあり、生花苗(おいかまない)牧場とも呼ばれた。ここで育てられた牛が、函館の牛肉販売や東京のマルセイバタ販売の原動力になる。
牛を函館へ運ぶ為に5月11日に大樹町を出発し、到着したのは6月1日。輸送コストが甚大だったのは、素人目で見ても分かるものとなっている。
牛を函館まで運んだ際に発生した費用などを記した『牛引通』。宿泊費用や川渡し(※1)の費用、どのようなルートで何日かけて運んだかを知ることが出来る。

(※1)川渡し…橋や渡し舟の無い川で、旅人を背負ったり台に乗せたりして渡したこと。
写真左は、屠牛簿。牛を屠殺した日付や、肉の重さ、売り先が書かれている。函館では牛肉の需要が高く、一日一頭のペースで販売出来た月もあったようだ。

右は、秣(まぐさ)買入帳。牛の餌になる秣の購入をまとめた史料。
左は、お客や取引相手によって何を販売したのかを一覧する『大福帳』。

その右隣りは『物品判取帳』。現代で言う所の領収書。
マルセイ肉店の注文帳。お客の名前や、何を販売したか、代金等が書かれている。
様々なお客さんがいたようで、外国人のスコットさんが購入した記録も。
マルセイ肉店従業員の写真。「牛肉」とデカデカと書かれた法被(はっぴ)がイカしてる。

🔴バター事業 ~東京の有名店へ~

生花苗おいかまない牧場で育てられた牛は、牛肉販売だけでなくバター製造にも活用されました。

そして当時は鉄道の発展がめざましく、それに目をつけた依田勉三はチャンスと捉え、バターづくりを本格化、東京へ輸送し販売しました。

その当時の様子を写した写真や、貴重な機械や史料の数々をお届け致します。

晩成社のバターづくりの様子。1911年(明治44年)ごろのもの。
バター製造に使用した器具。
それぞれをアップにして見てみる。こちらは分離機で、牛から絞った乳(生乳)を、回転の力を用いてクリームとスキムミルク(脱脂乳)に分離する機械。
こちらはバターチャーン。生乳から分けられたクリームを激しくかき混ぜてバターをつくる道具。
こちらはバターウォーカー。バターチャーンで出来上がったバターの形を整える為の道具。
十勝から東京へ、マルセイバタを運んだ様子が分かる。当時としてはかなりのスピード輸送であったと言えるのでは。
バター運搬の伝票。現代の伝票との比較も出来る。なんと日本通運が運搬していた模様。
写真左は『青木堂』のバター領収書。青木堂は東京大学の近くにあるハイカラな西洋雑貨店。森鴎外や平塚らいてうなども利用した有名店だった。

右は東京の上野駅付近で営業していた『広屋商店』のチラシ。バタという記述がある。
マルセイバタのラベル。全国的に有名な、六花亭のマルセイバターサンドのデザインの元になった。
青木堂からのクレームのはがき。「重量が足りないし、おかしな匂いがする」との記述が。今ほど量産体制が整っていなかった頃の、バター製造の困難さが伺える。

🔴灌漑かんがい事業 ~米づくりへの挑戦~

十勝においても、昭和後期まで米づくりを行っておりました。

現代は当時より温暖になったり、品種改良や栽培技術が進んだお陰で、北海道でも美味しいお米が食べられるようになりました。

勿論、それも先人の弛まぬ努力があったからこそ。

その、北海道における米づくり黎明期の様子を写真や史料と共にお届け致します。

晩成社の途別農場に展開された、途別水田。水田づくりは晩成社が解散した後も続き、現在は「幕別町(帯広市の東隣)札内みずほ町」という地名で名残がある。
こちらは、晩成社札内農場灌漑地区変更区域平面図(長いな😅)。工事用、或いは助成金の申請用の図面と思われる。当時の水田の規模を知ることができる。
こちらも晩成社農場内灌漑区域変更平面図。二枚一組の構成。あ~、筆者が写ってしまっている💦
二枚一組の内の二枚目。
1909年(明治42年)に書かれた『明治四十二己酉年 日誌』。事務担当の波多腰円一が記したもので、依田勉三の日記と比較してより具体的に業務が書かれている。途別水田の事業に関する記述が多く含まれている。
当時流行した農法を試すよう勧める手紙。
晩成社の1911年(明治44年)の営業報告書。小作人が冬季に出稼ぎに行った関係で、イネの種まきが遅れた事が書かれている。

🟥今回のまとめ

🔴土地の申請の許可が降りて、様々な事業に挑戦した。

🔴函館の牛肉店経営は、輸送や牛の飼料のコストがかかり、思うように進まなかった事が、史料から伺い知ることが出来た。

🔴バター事業は、東京の有名店で販売され、太客(ふときゃく)を掴み利益をあげることが出来た。

🔴水田事業にあたって必要な図面や、当時流行したノウハウがわかり、北海道の米づくりの黎明期が垣間見えた。

🟥最後に

如何でしたでしょうか?

今回は、晩成社がチャレンジした数々の事業をご紹介致しました。

何に挑戦するにしても、最初期は試行錯誤、悪戦苦闘の日々が続きます。

その上、ほとんど未開の地からの挑戦なのだから、その大変さは今の時代からは考えられないものがあったと思います。

それでもめげずに、挑み続けた晩成社の方々に最大限の敬意を表します。

その晩成社の挑戦の気概を、筆者にも分けさせて貰いますよ🔥。明日も頑張るぞ✊✨。

次回は、その4 ~事業の展開~をお送り致します。お楽しみに☺️。

それでは、今日はこの辺で🤗。

また会いましょう☺️。

その4はこちら


とらねこの共同マガジンに参加させていただいております‼️⏪

ひまじん33ごう🐹|十勝のnoterってどんな人?

筆者の地元・十勝を紹介する、ふるさとを語るシリーズです

Twitterもやってます!大した事やってないですけど💦

この記事が参加している募集

#ふるさとを語ろう

13,640件

よろしければ、サポートをお願いいたします!筆者のブログをより良くするためだけに使わせていただきます!