第二十三話 私と家族について思う事
祖母は18歳の時にお見合いで祖父と結婚。19歳で母を産み、母が20歳になったときに離婚した。田舎なので離婚をするのは『子供を成人させてから』といった考えらしい。母は一人っ子だったので私の父は婿入りである。
日常的にDVを受けていて、「子供が成人するまでは」と泣きながら毎日耐えていたと祖母から何度も聞かされたことがある。
祖母はよく私に、「私は何をされても我慢したのに、○○は子供を置いて出て行ってどうしようもない娘だ」「親に捨てられちゃって可哀そうに」と言っていた。
だが、母がトランスジェンダーだったことは、後から知ったことだから今現在の考えになるが、母は相当耐えて頑張ったのではないかと思う。体は女でも心は男、恋愛対象者は女性、その状態で子供を二人産み、私がある程度のことは出来るようになる9歳までは一緒に生活したのだから。
もちろん、立派に育児をしていたとは言えないし、私に対する虐待という事実があったことは私が一番よく分かっていることだが、祖母も母も、何かに耐えながら苦しみ抜いて来たのだろうと想像する。
祖母は仕事をしていなかった。父が毎月私の養育費分は振り込んでいたそうだが、生活費、その他もろもろとお金を出していたのは『社長』だった。建設会社の経営者で、もちろん家庭がある。祖母は離婚したのが39歳の時なので、その頃からの『社長』の愛人だったという事だろう。『社長』は私に優しかった。不登校の時にはよく家に来て私と将棋を指しながら下らない話をしてくれた。今でも将棋が好きなのはその頃の影響なのだろうと思う。世間では善くないとされている不倫関係の相手が私を育ててくれたのである。
DVや虐待、育児放棄や不倫関係、一般的に『悪』の一文字で表わされてしまうようなことでも、その背景をよく知ると、何が『善』で、何が『悪』なのかよく分からなくなってくる。誰かが耐えれば誰かが苦しい思いを免れ、誰かが楽になれば誰かが辛い思いをする。セクシャルマイノリティの場合には打ち明けられない人もたくさんいるし、見ただけでは判断できない人も多い分辛さも苦しさも相当の物なのだろう。
祖母は私に気遣い自由にさせてくれた。当時の祖母は言いたいことも我慢して辛かっただろう。だがそれが私にとって本当に良かったのか?
私が一時期非行に走っていたのは、やはり色々な精神面の辛さ、人に話しても解決できない事への苛立ち、自身の環境への不満などが大きかったのも事実である。薬物中毒から抜け出すのは辛かったし、その事に対しての理解を得るのも難しかった。ある人にとっての普通は、ある人にとっては普通ではなく、ある人にとっての常識は、ある人にとっては非常識にもなる。
不登校になるのも、非行に走るのも、引きこもるのも、活発に生きるのも、それぞれ個人が考えて出した結果であり、それはその人の個性でもある。
人生は結局何をするにも自身で決断しなければならない。その際の判断する材料、基準などは子供の頃からの環境、親を見、周りの人たちを見、学んだこと。そういったことが大きいのだなとつくづく実感する。
今の私が、子供にしてあげられることは何か、しなければならないことは何か、してはいけないことは何か、そんな事を考え出したら止まらなくなってしまいそうだ。
今回はちょっとまとまりのない文章になってしまい申し訳ございません。ただ自分の思う所をつらつらと書いてしまいました。次回は中学生活の思い出深かったエピソードを書こうと思います。
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